織田信長の岐阜命名(補足)

織田信長は周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した(ただし以前から文人が「岐陽」などと呼んでいた)というのはよく知られた話。


しかし、信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名したという話は、そもそも誰が言い出したのか?実はそんな話は存在しないのではないか?ということは以前書いた。
織田信長の岐阜命名


ただし、それは良く聞く話だけれど、専門外の作家などが書いたものやネット情報などは元々信用度が低い。学者はどう言っているのか?ということで確認してみた。

『安土創業録』には、政秀寺開山沢彦の「周の文王が岐山より起り、天下を定む」という中国の故事にちなんで岐阜と名付けることを進言し、これに信長が従ったと伝えるが、

岐阜市史』

しかし信長が岐阜の名を好んだのは、周の文王が岐山より起こり天下を定めた、という中国の天下統一の故事により、新たな中央政権を作る意気込みを込めたこのという。これは『安土創業録』という江戸時代の書に、政秀寺開山の僧沢彦の進言として出ている話だが、その信憑性はともかくとしても、信長がそう考えて改名したというのがやはり自然だろう。

『信長とは何か』(小島道裕 講談社選書メチエ

このように、学者も、信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名したと書いている。さらに、それが『安土創業録』という史料によるとも書いている。


残念ながら『安土創業録』は確認することができない(そもそも活字化してるのかも知らない)のだが、


だが既に書いたように『岐阜志略』に『安土創業録』の記事の内容が載っている。

岐阜は織田信長始て名付られしとぞ創業録に曰信長は井ノ口の城手に入けれは澤彦和尚へ使者を以て爰に来り給へ宣ふ澤彦井ノ口に到る信長兼て小侍従と云者に宿を仰付らる信長澤彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し名を易給へと澤彦老師岐山岐陽岐阜此内御好次第にしかるべしと信長曰諸人云よき岐阜然るべしと祝語も候哉と澤彦曰周文王起岐山定天下語あり此を以て岐阜と名付候無程天下を知召候はんと信長感悦不斜額の名盆に黄金を積て賜り此盆は豊後の屋形より来る秘蔵有へしと仰せける

近代デジタルライブラリー


そして、これを見る限りでは「信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した」という話ではない。


1.信長は沢彦に「井ノ口」は城の名が悪いので名を変えたまえと命じた
2.沢彦は岐山・岐陽・岐阜のうち好きなのを選んでくださいと答えた
3.信長は岐阜が人が発音しやすいので岐阜にすると決めた
4.信長は沢彦に「祝語」はないかと聞いた
5.沢彦は周の文王の故事を述べた
6.信長は喜んで沢彦に褒美を与えた


という話だ。沢彦が文王の故事を述べるのは信長が岐阜に決めた後のことだ。


もちろん、それを聞いて信長は気に入ったのだろうし、沢彦も信長が喜ぶことを予想していただろう。だが、これはやはりどう考えたって「信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した」という話ではない。


百歩譲って裏を読めば、そう考えることもできなくはないかもしれない(俺は無理があると思うけれど)。しかし、何の断りもなく『安土創業録』に書いてあるとするのは、明らかにおかしいのではないか。


こんな明らかにおかしいことが、ナチュラルにまかり通っているというのは、本当に納得のいかないことだ。