日本語は主語(及び目的語)が曖昧だと言われる。しかし現代はまだましな方で、歴史史料を見ていて頭が痛くなるのは「誰が」「誰に」がさっぱりわからないことだ。前後の文脈で推理するしかないけれど推理が正しいとは限らない。しかもそこが異なると文意が全く異なってしまうのだから困ったものだ。
『信長公記』の蛇退治の記事とその際に信長暗殺計画があったことについて前に書いた。
⇒信長はなぜ三郎なのか(その5)(その6)
去程に身のひゑたる危き事あり。子細は、其の比、佐々蔵佐、信長へ逆心の由風説これあり。これ依つて、此の時は正躰なく相煩ふの侯由て罷出でず、定て信長小城には、当城程のよき城なしと風聞侯間、此次(ついで)に御一覧侯はんと仰せられ侯て、腹を御きらせ侯はんと存知られ侯処、家子・郎党長(おとな)に井口太郎左衛門と申す者これあり。其儀においては任せ置かるべく侯。信長を果し申すべく侯。如何となれば、城を御覧じなされたしと井口に御尋ねあるべく侯。其時我々申す様に、是れに舟御座侯間、めされ侯て、先かけりを御覧じ侯て然るべしと申すべく侯。尤と御諚侯て、御舟にめされ侯時、我々こしたかにはし折り、わきざしを投出し、小者に渡し、舟を漕出し申すべく侯。定めて御小姓衆ばかりめし侯歟。たとへば五人・三人御年寄衆めし侯共、つがひを見申侯て、ふところに小脇指をかくしをき、信長様を引きよせ、たゝみかけてつきころし、くんで川へ入るべく侯間、御心安かるぺく侯と、申合せたる由承わり侯。信長公御運のつよき御人にて、あまが池より直に御帰りなり。惣別大将は、万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて侯なり。
「佐々蔵佐は信長へ逆心の風説があったので病を口実に罷出なかった」ここは良い。問題はその次。
定て信長小城には、当城程のよき城なしと風聞侯間、此次(ついで)に御一覧侯はんと仰せられ侯て、腹を御きらせ侯はんと存知られ侯処、、家子・郎党長(おとな)に井口太郎左衛門と申す者これあり。其儀においては任せ置かるべく侯。
俺はずっとこの部分を、
「(佐々蔵佐は)信長は小城には当城(比良城)程の良き城は無いと伝え聞いているので、このついでに城を見たいと仰せがあるだろうから、(これは飛んで火にいる夏の虫、絶好のチャンスである)(信長を)自害に追い込もうと考えていたところ、井口太郎左衛門がその件(信長暗殺)については自分に任せてくれと言った」
という意味で解釈していた。
ところが、この部分、
実は佐々氏が、信長に反逆すると言う風評が立っていて、信長に腹を切らせられると思い込み、
ならばということで、比良城では信長を暗殺しようと言う計画が練られていた。
これは成政に腹を切らせるためだろうと佐々の家子や郎党は考えた。その中に井口太郎左衛門というものがいた。「そのことは任せてください、信長を討ち果たしてくれよう」という。
そのような事に人を集めるというのでは、信長の意図が読めなくて、もしかすると比良城を攻めるのではないかと勘ぐっても当たり前だろう。
というように、腹を切るのは「佐々」という解釈がなされている。
⇒水野氏史研究会 : 【談議1】水野氏と戦国談議(第二十回)
には、中川太古氏の訳(『現代語訳 信長公記』)として、
蛇替えのついでに成政の城を見ようなどと言って、この城へ来て、私に詰め腹を切らせるのではないか」と心配した。
と、これも同じ。
ということは、やっぱり腹を切るのは「佐々」ってことなんだろうか。どうもすっきりしないんだけど、古文に自信があるわけでもなし。