『謎とき平清盛』(本郷和人)その4

その1
その2
その3


「寛宥の御備」とは「兵に対する優しい気配り」という意味ではなくて「信長に対する優しい気配り」という意味だ。


さらに「寛宥」という言葉には重要な意味がある。


それは武田信玄織田信長を単なる「敵」ではなく「罪人」とみなしていることだ。すなわち織田信長を討つことは私利私欲のためではなく「正義のため」という大義が(少なくとも建前上は)存在するということだ。


これが仮に「建前」だとしても「建前」を軽視してはならない。内心がどうであろうと表面上はそれを元にして行動するのだから。


では、織田信長はなぜ「罪人」だとみなされるのか?


まず考えられるのは征夷大将軍足利義昭に対する罪だ。信長は義昭と対立したのだから、義昭を正義とすれば信長は罪人になるだろう。


次に仏敵としての「罪人」。元亀2年(1571年)9月、信長は比叡山を焼き討ちしたと伝えられる。これについては疑問も出されているが、誇張があるにせよ、当時の記録に残されているのだから、少なくとも人々が信長が比叡山に残虐な仕打ちをしたと認識していたことは間違いない。武田信玄が西上作戦を開始したのが翌元亀3年。「伊能文書」の日付が12月28日。信玄が信長を仏敵とみなしていたのは間違いない。


信長が「罪人」だというのは、義昭に対する罪人、仏教に対する罪人、あるいはその両方かもしれないが、俺はおそらく「仏敵」という意味だと思う。そこはもっとよく考えなければならないけれど、いずれにせよ信玄にとって信長は滅ぼさなければならない「罪人」であり、この戦いは私利私欲のための戦いではなく大義ある戦いであり、また朝倉義景にとってもそうだと考えていたとみて間違いないだろう。



本郷和人氏は『謎とき平清盛』で次のように主張する。

 ここで文書を読む人の「良心」が作用します。AとB、どちらを採った方が面白い解釈にたどり着けるか、はしばし措く。客観的に、どちらで読む方が妥当なのか、を考えます。すると、ここではB説をとらざるを得ない。B説で解読するなら、信玄と義景は対等な関係です。主役も脇役もない。「信長包囲網」の存在も主張できない。信玄の出兵が上洛を目指していたのかどうかすら、この文書からは不明というしかない。これが「歴史資料=史料」である古文書を解読する際の「知性と良心」の働きです。


「信長包囲網」の存在については、確かにこれだけでは存在すると主張することはできないかもしれない。しかし否定できる積極的な証拠にもならない。


そしてA説を採用したからといって「信玄と義景は対等な関係」ではないとすることもできない。罪人の信長を滅ぼすという「大義」の前で信玄と義景は対等な関係だと考えられる(そもそも本郷氏の主張を受け入れたとしても、なぜA説だと対等な関係にならないのか俺には理解不能だが)。


さらに「信玄の出兵が上洛を目指していたのかどうか」については、信長を滅ぼすという目的のために「上洛」を目指すことは十分考えられる。ただし「上洛」が信玄が信長に取って代わるという意味であるならば、それはこの史料だけではわからない(その意図が無いと受け取れないこともないが)。「上洛」とは「都へ上る」という意味だ。だが本郷氏は「信玄が信長に取って代わる」という限定した意味で使い、なおかつそれを読者への説明なしに当然のように使っているように感じられる(明言してないので断言できないけれど)。


(つづく)


※ ところで「信長包囲網」というのは、鎌倉「幕府」と同じように、当時の人がそう呼んでいたわけではなく、実態としてそのようなものが存在したという話であり、「鎌倉幕府は実在したか」というような話と同様のポイントで思考すべきものであろう。