尻はす

宇喜多直家の死因は「尻はす」という腫瘍であったという。

以降美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返すが、天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという[4]。 その死はしばらく隠されたといい[7]、翌10年(1582年)1月9日が公式な忌日とされている。戒名は涼雲星友。

宇喜多直家 - Wikipedia


備前軍記』(国史叢書)より

宇喜多和泉守直家、近年腫物を煩ひ、出陣も叶ひ難く、浮田與太郎基家・浮田七郎兵衛名代として、所々出陣ありしが、病気重りて、天正九年二月十四日、行年五十三にて卒去なり。

一説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づる事夥し。之をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家早や死去ありしといふ事を、外にて推量して、皆之を沙汰しけるとぞ。

「尻はす」とは「尻蓮」ということだろうか?だとしたら蜂の巣状の腫瘍ということか?「近年」とあるから短期間で悪化したわけではなさそうに思える。


この前の「馬足形」を考える上で何か参考になるかもしれない。ならないかもしれない。