「歴史」を捨てた方が幸せになれる?

「歴史」を捨てた方が幸せになれるとしたら? | 歴史になる一歩手前 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

保苅によれば、彼が調査したグリンジというアボリジニ・グループの長老は、こう語ったという。

同地では1966年、劣悪な労働条件に抗議したアボリジニによる職場からの退去と、白人に対する土地返還運動が起きるが(75年に勝利)、長老いわく、そのきっかけは米国大統領ケネディの来訪だというのだ。

彼らが生きている「歴史」のなかでは、とにかくケネディが同地を訪れて先住民を激励し、「イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよ」と申し出たのが、運動のはじまりだということに今もなっている。

ちょっと信じがたい「歴史」だが、このアボリジニ・グループの話が事実だとして、それが我々の「歴史」と一体どんな関係があるだろうか?


それはそのアボリジニ・グループの「歴史」であって我々日本人の「歴史」ではない。そして、彼らは複数の「歴史」の中から意識的に特定の「歴史」を選んだわけではないだろう(多分)。彼らの「歴史」は彼らの伝統に培われた風土の中から生まれ出たものであろう。すなわち我々には関係の無いものである。


もしかしたら、太古の日本列島に住んでいた人々は、彼らと似た歴史観を持っていたかもしれない。そして現在の我々にもそれが受け継がれているかもしれない。もしそうだったとしても現在の我々の「歴史」において、その影響は微小なものであろう。


もちろん、現代の歴史学は西洋から輸入された歴史学が基礎になっている。とはいえ我々にはそれを受け入れる素地があったのだ。もし、日本古来の歴史観と西洋の歴史学があまりにも懸け離れたものだったとしたら、我々はそれを受け入れなかったかもしれない。


だがそうはならなかった。文明開化で日本が急速に近代化に成功したのは、日本にそれを受け入れる土壌があったからだ(当の西洋人でさえ受け入れがたかった進化論も日本人は割と容易に受け入れたのだ)。歴史学もその一つだ。そして我々はそれを自己のものとした(多少の違いはあるかもしれないが)。


であるからして、我々は我々の「歴史」を持ち続ければよいのだ。どっちの「歴史」が優れているとか劣っているとかいう話ではない。他の「歴史」があるからといって、どっちを選べば良いのかなど悩む必要はないのである。


と「保守」の俺は考える。「革新・進歩的」な考えでは、複数の「歴史」があることに困惑するか、優劣を付けなければ収まらないということになるのかもしれないが。