受け入れられない土壌

上に日本人には西洋の歴史学を受け入れる土壌があると書いたが、今度は「受け入れられない土壌」について。


ネットを巡回していると「どうしてそんな反応が出てくるんだ??」と思うことが良くある。「何で批判するんだ?」というような話ではなくて「何でそれをそう解釈するんだ?」ということだ。


例を挙げれば「人種とスポーツ」の話。
「習慣」の話じゃないの? - 国家鮟鱇


ケニア国内で首都ナイロビ周辺や、北東地方、海岸地方からは、優秀な選手がまったく生まれていないのに対し、ナンディという民族が優れた運動選手を多数出している。


その理由として元記事に「習慣」とはっきり書いてある。にもかかわらず「遺伝」だと受け取った人がいた(その部分をちゃんと引用しているにもかかわらず)。しかもブックマークのコメントなども、それに疑問を持つことなく同様に受け止める人が多数いる。「無理がある」と批判している人がいるがそもそも元記事にそんなことは書いてない。「当たり前の話」だと言ってる人がいるが(以下同文)。

一団は、牛を手に入れると、迅速に、追手に気づかれる前に、帰途につかなければならず、成功者は、家で待つ人びとに称えられ、英雄として迎え入れられました。

当然、恵まれた条件で、伴侶を得る機会を与えられ、子孫を残す確率が高くなります。

こうした長距離走の習慣が、幾世代にわたって繰り返されるなかで、ナンディを人並みはずれた走力と、心肺機能の持ち主に鍛え上げてきたのでは、というわけです。

確かに、誤解を招く書き方をしているかもしれない。より正確に言えば「誤解する人がいることを予測できなかったので誤解されないようにする工夫をしなかった」ということだろう。


(英雄が子孫を残す確率が高いからといって遺伝子が継承されるという意味には必ずしもならない。英雄が生まれ育った環境が引き継がれるという意味としても受け取れるだろう。たとえば今の日本で教育格差が世代間で継承されるというのは遺伝ではない)


繰り返すが「習慣」と書いているんだから遺伝じゃないことは明らかであり、そんな誤解をする人がいるとは思いもよらなかったんだろう。だが読者は元記事の筆者である川島浩平氏とは全く別世界の住人だったのだ。


彼らの中には元記事をちゃんと読まなかった人もいるかもしれない。だが「習慣」の文字をしっかり目に入れた人も多数いたに違いない。目にしたにもかかわらず、それが正確に脳内で処理されなかったのだろう。いや「正確」と表現するのは不適切だろう。彼らは上に書いたアボリジニ・グループと同様に世界観が全く異なっているのだろう。ケネディが1963年に暗殺されたにもかかわらず1966年に彼らの前に現れた(死霊とは書いてない)。我々には辻褄が合わないと感じるが、彼らはそう感じないからそれを信じているのだろう。



似たようなことはたくさん起きている。毎日見かけるといっていい。昨日の「おおやにき」にしたって大屋氏が保守と革新の違いを説明しているにもかかわらず全く噛み合ってない妙な反応がある。その人が見ているものと俺が見ているものは同じものであって全く違うものなんだろう。


※なお、川島浩平氏の『人種とスポーツ』(中公新書)の該当箇所を見てみたが、遺伝だなどとは書いていなかった。

総じて長距離走者としてのナンディの名声は、アフリカのなかでも恵まれた地理的、環境的条件、民族集団としての経済構造と秩序、伝統的生活様式などの歴史的かつ文化的な背景、さらには個々の成員が属する家庭の経済的地位と日常的な経験の積み重ねなど、実に多くの要因の総合的な作用のなかで築き上げられたと言えるのである。(P225)

たとえば遺伝的要因によってこれら集団のどこかのレベルまで優れた運動能力を生み出す資質が共有されるとしても、その影響力は一般に想定されているより小さく、その集団の境界の特定は困難である。(p241)