「慣用読み」とは結局何なのか?

昨日の続き

「慣用読み」で検索すれば多くの記事がヒットする。
"慣用読み" - Google 検索


でもなかなか納得できる解説がない。


辞書によれば『大辞林』が「慣用による読み方。正式な読み方以外によく用いられる読み方」であり、『大辞泉』は「慣用音を用いた読み方」と説明している。
「かんよう‐よみ【慣用読み】 の意味とは」 - Yahoo!辞書


「慣用音」とは「漢音・呉音・唐音などとは異なるが、日本で広く使われ、一般化している漢字の音」(『大辞林』)、「呉音・漢音・唐音のいずれでもなく、日本で広く使われている漢字音」(『大辞泉』)のこと。
「かんようおん【慣用音】 の意味とは」 - Yahoo!辞書


ここで引っかかるのが「正式な読み方」だ。辞書の意味を統合すれば「正式な読み方」とは「呉音・漢音・唐音で読むこと」だ。それ以外で読むことが「慣用読み」である。


すなわち「正式な読み方」とは中国大陸で使われている読みかたということだ。ただし、その読み方をすれば(古代の)中国大陸で意味が通じるかというと、そうでもないように思う。英語にたとえれば「水」は「ウォーター」だが、日本語の感覚で「ウォーター」と言っても相手に通じないだろう。むしろ「ワラ」の方が通じるだろう。でも「正式な読み方」とはおそらく「ウォーター」に該当するものだろう。


次に問題になるのは、その「正式な読み方」は実在するのかということ。漢音や呉音で読めば、その熟語はこう読まなければならないといっても、実際にその熟語がそう読まれていたとは限らないではないか。最初から慣用読みされていたかもしれないではないか。昔の史料に載る熟語がどう読まれていたかというのは振り仮名が付いているとかであればわかるけれど、全てがわかるというものでもないのではないか?熟語ではないけれど「織田信長」は本当は「おた」と読むのではないかとか、「織田信雄」は「のぶかつ」なのか「のぶお」なのかとか確実なことはわかってないのだ。昔の読み方がわかっているもので、今は違う読み方をされているものだけが「慣用読み」なのか?そういう定義があるという記事は見つからなかったけれど。


なお、「慣用音」とは基本的に「呉音・漢音・唐音」以外の音で読むことだ。すなわち実は大陸でもそう発音していて日本に持ち込まれたものだとしても、それが「呉音・漢音・唐音」として確認されていなければ「慣用音」になるらしい。

明らかに中国から来た字音で広く流通しているにもかかわらず、呉音・漢音・唐音に分類できないものがある。例えば、茶は呉音では「ダ」、漢音では「タ」、唐音では「サ」である。「チャ」という字音は院政時代の字書『色葉字類抄』などから見られ、漢音と唐音の間の時期に流入したと考えられる。また、「椪柑」(ポンカン)の「椪」は呉音・漢音・唐音いずれも不明で、「ポン」は台湾語音に由来するのではないかと見られる[1]。このような字音も慣用音に入れられている。

慣用音 - Wikipedia


以上のことを考慮すれば、実際に日本でそのような読み方をされたことが確認されていない「理論上の読み」であっても、それとは異なる読みがされている場合は「慣用読み」とされる可能性があるし、それどころか大陸から伝わった読みに忠実であっても「理論上の読み」と異なる場合は「慣用読み」とされる可能性もあるということになるのではなかろうか?



しかし、それよりも違和感を持つのは、検索して見つけた「慣用読み」に言及している記事の多くが、そもそもそういう意味ではなく、ことわざの「情けは人の為ならず」の意味が誤解されて、別の意味が通じるようになっているというのと同じような意味で把握しているのではないかということ。


もちろん、慣用読みの中にはそう遠い昔でもない時代には「正式な読み方」がされていたものが、「最近」になって変化したというものも含まれるのだろう。しかし、それは慣用読みの中の一部であって全てではない(と思う)。


また、「慣用読みは間違いではない」という意見を多くみかけるけれど、それを「情けは人の為ならず」と同じく元は誤解から生じたものでも、それが流通して根付いたのなら認めるべきだというような意味で言っている人が多いように思われる。しかし、慣用読みが誤解・間違いによって生じたとは必ずしもいえないのではないか(と思う)。


信頼できる解説がないので、結局のところ「慣用読み」とは何なのかは未だに確かなことがわからないけれど、なんとなく「慣用読み」という言葉自体が「本来の意味」とは違う意味で流通しているのではないかという感じがする。