吾妻鏡と儒教

元久元年(1204年)11月、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めた。翌・元久2年(1205年)6月、時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。


 なお、『吾妻鏡』におけるこの下りは、その後北条政子と義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。1898年(明治31)に原勝郎は、『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』において「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば 始めに處女にして終りに脱兎たる者か 怪むべきの至なり  換言すれば かゝる矛盾を來す所以は 吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりして かゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし」と書いており、以降の『吾妻鏡』研究では曲筆の代表例とされる。

畠山重忠 - Wikipedia


さて。儒教道徳における「孝」とは、

君臣間の徳目である「忠」と時に齟齬を来すことになるが、中国や朝鮮では多くの場合、「忠」よりも「孝」が大切だと考えられた。たとえば、道に外れたことを行う君主を三度諌めても聞き入れられなかったら、君主の下から去るべきであるとされたのに対し、道に外れた親を三度諌めても聞き入れられなければ、号泣して従わなければならないとされた。有能な大臣が、自分の親の喪中に出仕したことを不孝であると咎められて失脚するようなことも起こった。

孝 - Wikipedia
ということだ。


父の北条時政畠山重忠を討つという「道に外れた」ことを言い出したら、子である北条政子と義時は父を諌めても言うことを聞いてくれなければ父に従わなければならない


従って義時・政子は父と考えが違っていても、重忠を討つということに同意しなければならない。ところが『吾妻鏡』同年、7月8日に政子は重忠余党等の所領を勲功の輩に分配している。また7月20日に重忠の遺領を女房衆に分配している。


たとえ仕方なく父に従って重忠を討つことに同意したのだとしても、そこまですることはないだろう。しかもそこまで父に従う義時・政子が翌閏7月には父の時政を隠居させているのは一貫性に欠ける。先の父を諌めたという話は義時を擁護するための『吾妻鏡』の編者の曲筆である。というのが原勝郎(1871-1924)の主張。その当否はともかく考え方については頷ける。


ただし、原勝郎が主張しているのは、吾妻鏡』は義時が重忠を討つという父の考えに従ったことを正当化しているということであって、

義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する

ということではない。


儒教道徳では

道に外れた親を三度諌めても聞き入れられなければ、号泣して従わなければならない

のであるから、父を追放するのはどう言い訳しようが「背徳」であって正当化は不可能である。


なお『吾妻鏡』閏7月19日には

遠州俄に以て落餝せしめ給う

と書いてある。これは義時が追放したのではなくて自発的に出家したという意味であろう。従って『吾妻鏡』的にはこれで十分であり、そもそも正当化する必要がないのである(正当化は不可能だから追放自体を無かったことにするしか方法がないだろう)。



さて、これを書くきっかけになったのは
【本郷和人の日本史ナナメ読み】(40)史料を鵜呑みにできない理由+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
であり、そこに

 もちろん、重忠が大力で廉直(れんちょく)で、周囲の敬意を集めた人物であったのは疑いのないところでしょう。でも、それだけではない。彼は北条父子が決裂する事件の当事者だったのです。北条義時は父の時政を追放し、幕府の主導権を奪取した。けれども、当時の通念からすると、父への反逆は大罪です。義時以降、連綿と幕府のあるじとして君臨する北条氏の覇権が、父の追放から始まるのは、まことによろしくない。

 そこで『吾妻鏡』は工夫しました。畠山重忠を持ち上げました。重忠が立派な武士であることを殊更に強調し、慎重に伏線を張っておいたのです。その重忠を、「かくあるべき御家人の生き方」を体現してみせる彼を、なんの咎(とが)もなく、北条時政は謀殺してしまった。時政は私欲にとらわれ、大きな過ちを犯した。だから、子息の義時に背かれても致し方ない。義時は父を犠牲にして、「かくあるべき御家人の生き方」を守護したのだ。さあみんな、安心して我らがリーダー、北条氏についていこう! そういう物語を作ってみせたのではないでしょうか。

と書いてある。だが、どんな理由があろうとも「子息の義時に背かれても致し方ない」などという正当化は儒教道徳的には不可能である。


もちろん、ここでいう儒教道徳は本場中国の道徳であり、日本において変容したという可能性は無くもない。江戸時代の頼山陽日本外史』によれば平重盛は「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」という名文句を吐いたという。しかし本来の儒教道徳からすれば「孝」を優先すべきなのが当然なのである。


そういう可能性はなくもないけれど、そんな説明が一切なく、さも当たり前のことであるかのように主張するのはどう考えたって説得力のカケラもないのであるし、そもそも当時の道徳がどんなものであったのかといったことが考慮されてない可能性が限りなく高いと思うのである。