御曹子島渡伝説で源義経が「四国土佐のみなと」から出港し「蝦夷が島」に到着するまでの間に描かれる島々についての学者の研究を知りたいのだけれども、それがどこにあるのかさっぱりわからない。
源頼朝流刑地の「蛭ヶ小島」についても同様で、知りたい情報が見つからない。ただしこちらは糸口になりそうな断片的な情報が多少はある。とはいえその情報の解釈に迷うことが多々あり、そのような状況でそれらを繋ぎあわせてしまうと事実と全く異なるものができてしまいそうで怖い。
とりあえずネットで一番有充実している情報はウィキペディアの記事。もちろんウィキペディアを鵜呑みにするのは危険ではあるが、これよりも充実しているのは無いように思われるので仕方がない。
しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明。発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の遺構は確認されていない。『吾妻鏡』では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記し、当地が比定地であるかは不明。
現在、「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する碑が1790年に建てられた。これが「蛭島碑記」で伊豆の国市指定有形文化財となっている[1]。また、公園内には頼朝・政子夫妻の像が作られている。
2007年、茶屋や土産物を売る店が地元の職業訓練校の生徒の手により作られた。運営はシルバー人材センターが行っている。
さて、この記事を読んで「蛭ヶ小島」についてどう受け取るだろうか?俺が最初に思ったことを記せば、
1、頼朝が「蛭島」に流されたという確かな証拠はない。
2、江戸時代に秋山富南が「蛭ヶ島」の地を推定した。
3 しかし発掘調査したが遺構は確認されていない
以上を踏まえれば
4、そもそも「蛭島」は頼朝の流刑地ではない可能性がある
5 仮に流刑地だったとしても、現在「蛭ヶ小島」とされている土地は頼朝とは関係もない場所で、本当の「蛭島」は全く別の場所にある可能性が高い
6 秋山富南は江戸時代の学者だからレベルの低い当てにならない推理をした(と考えられている)のだろう。
というものであった。もちろんそれ以外の可能性もいろいろ考えたけれど簡潔に記せばこういうことになる。
しかし、調べてみて得た断片的な情報は最初の印象に合致しないものが多々あったのであった。そして再びウィキペディアの記事を読むと気になる部分がいろいろ見えてくる。まず、
当地が比定地であるかは不明
現在、「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、
の「比定地」と「推定」。
「比定」とは「同質のものがない場合、他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定すること」
⇒ひてい【比定】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
「推定」とは「ある事実を手がかりにして、おしはかって決めること」
⇒すいてい【推定】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
たとえば「奈良県を邪馬台国に比定する」といった場合、『魏志倭人伝』の地理記述や、「やまたい」と「やまと」の類似、三角縁神獣鏡の出土状況、卑弥呼の墓の記述と箸墓古墳の類似などを元にして「比定」したということになるだろう。
「蛭ヶ小島」についても同様にそのようなことをして「比定」したのだろうと最初は思った。そして現在この地が「蛭ヶ小島」と呼ばれているのは、ここが「蛭ヶ小島」の比定地だからそう呼ばれているのだろうと思った。
しかしどうやらそういうことではないようだ。
現在「蛭ヶ小島」と呼ばれている土地は、元々「蛭ヶ小島」と呼ばれていたようだ。そして、このあたりが源頼朝の流刑地だということも元々言い伝えられていたらしい。いや確かにそうなのかは自信がないのだが、断片的な情報を元にすればどうやらそうらしい。
つまり、秋山富南は源頼朝の流刑地だという言い伝えのある「蛭ヶ島」という土地について記しただけのように思われる。
もちろん、蛭ヶ小島という地名があって頼朝の流刑地だという伝説があるからといって、そこが本当に頼朝の流刑地の「蛭島」だとは限らない。現在の学問であれば遺物が確認されるとかがなければならないかもしれない(邪馬台国の遺物が発見されたという話は聞かないが)。でもこれだけの根拠が揃っていて、(これも俺の推測にすぎないけど)他に「蛭島」の候補地が存在しないとなれば、こここそが「蛭島」なのだと推測するのは極めて自然なことだろう。普通誰だってそう思うのであって、それを最初に書物として書いたのが富南だったというだけではないだろうか?
これを「比定」とか「推定」というのは間違いではないのだろうけれど、しかしその言葉から思い浮かべるものとはだいぶ違った話であるように思われるのであった。
しかし、話はここからさらにややこしくなるのであった。
(つづく)