北条時政の「追放」

上の記事に関連して。俺はこの時代に詳しくないんだけれど、北条時政の「追放」といった場合、それはどういう意味で「追放」と言っているのだろうか?


もちろん実質的には「追放」であることは間違いないのだろう。ただここで連想するのは「禅譲と簒奪」だ。

禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。

禅譲 - Wikipedia


禅譲」と言っても実態は強制だ。しかし形式上は「禅譲」の形を取ってはいるのだろう。形式上も禅譲でないものを禅譲と記録したものはあるのだろうか?俺はこっちも詳しくないけれど、おそらく無いのではないか。


吾妻鏡』閏7月19日には

遠州俄に以て落餝せしめ給う

とある。時政が自発的に出家したということだろう。したがってこれは「追放」ではない。だが「事実」は「追放」だったのだろうと考えるのは歴史学的に見れば自然なことだ。


ただ、これが形式上において、時政が自発的に出家するという形を取ったものか、そんなことは一切無く無理やりに追放したのを後で改竄したものかというのが問題になる。


そんなことは実質を重んじる現代の歴史学にはどうでもよく、「いずれにしろ吾妻鏡は義時の行為を正当化するためにこんなことを書いたのに違いはない」ということなのかもしれないが、そこんところを何も考えないでいると、それ自体は重要ではないかもしれないが、それに関連したところで妙な歴史認識が生じてしまうように思えるのである。