御曹子島渡の謎

長いことブログの更新が滞ってしまった。なぜ滞ってしまったかというと、コロボックル伝説から小人島、そこからさらに御曹子島渡伝説、そこからさらに源頼朝流刑地とされる蛭ヶ小島、そこからさらにエビス・ヒルコというように繋がっていって、とてもとても関心があるんだけれども、情報が少ない、そもそもどうやって情報を見つければ良いのかさえよくわからない、てな感じで悶々としているうちに気力が萎えてしまったというわけ。ほとんど何も進展していない。わからないことが多すぎる。


で、とりあえず何がわからないのかを書いてみることにする。


まず「御曹子島渡」について。
御曹子島渡 - Wikipedia


この話は有名だから、論文とか書籍がいっぱいあるだろうと予測していたんだけれど意外にない。


CiNiiで調べたところ

等があった。しかし見れるものは見てみたけれど俺の関心は「蝦夷が島」ではなくて、そこに至るまでに巡る島々である。そこに関して得るものはなかった。さすがに誰かが研究しているだろうと思うんだけれど、それがどこにあるのかわからない。


義経が渡った「小さ子島」は魏志倭人伝に見える「侏儒国」と関係すると思われ、また「女護の島」は「女国」や「羅刹国」さらに倭人伝の「女王国」と関係するだろう。また「鬼界が島」は俊寛が流された「鬼界が島」で「蛭島」は源頼朝が流された「蛭島」と関係があるだろう。そういうことを学者がどう考えているのかを知りたいのだが…


ついでに義経の出発地である「土佐」も大いに問題である。なぜ「蝦夷ヶ島」に行くのに「土佐」から出発するのだろうか?


岩波文庫版の「御伽草紙」では義経は都に上ることを藤原秀衡に話したところ「是より北州に、一つの国有り。千島とも蝦夷が島とも申す」と教えられ、島へ渡ろうと思い立ち「四国土佐のみなと」に行ったことになっている。秀衡がいるのは平泉だろうから、そこから北に向えばいいものを、なぜわざわざ土佐まで行かなければならないのだろうか?


これについて国立歴史民俗博物館のサイトでは

 室町時代ころに成立した『御伽草紙』と呼ばれる物語の一つに、『御曹子(おんぞうし=源義経)島渡り』という作品がある。奥州平泉で義経をかくまっている藤原秀衡が、「ここより北に千島ともえぞが島ともいう国があり、その内裏にある兵法の巻物を見ることが必要」と義経に話す。そこで義経は、「北国又は高麗」の船も出入りする「とさのみなと」から出帆、様々な遍歴の後に目的を達して、また「日本とさのみなと」へ帰ってくる、という筋書である。

 この物語は、もちろんフィクションだが、しかし当時の人々の一般的な認識を伝えていると言うことはできる。日本よりもさらに北の世界へ旅立つべき場所は十三湊だというのが当時の常識だったのであり、十三湊こそは日本の北の境界に位置する、西の博多とも並ぶ国際ターミナルだったのである。「十三(とさ)」という地名自体が、トー・サム(湖・のほとり)というアイヌ語と思われることも、北へとつながるその性格をよく示している。

よみがえる十三湊遺跡
と解説している。岩波文庫版の『御伽草紙』では「四国土佐のみなと」と明記してあるのだが、こちらでは「十三湊」としている。これは「十三湊」と書いてあるバーションがあるということだろうか?それとも「四国土佐のみなと」というのが誤伝で本当は十三湊だったのだという解釈をしたということだろうか?


確かに十三湊としたほうが合理的ではある。しかしながら「鬼界ヶ島」が俊寛が流された「鬼界が島」と関わりがあるのだとしたら「鬼界ヶ島」は当時の「日本」の南端にある島である。だとすれば「四国土佐のみなと」が出発地でもおかしくはない。


※ なおここでは説明を省略するけれど「蛭島」は伊豆沖にあると考えられた「島」である可能性が高いと俺は思うので、こちらも「四国土佐のみなと」で問題ないかもしれない。なおついでにいえば「鬼界ヶ島」と「蛭島」がセットで登場するのには重要な意味があるだろうと思っている。


そして「蝦夷が島」自体も、現在の北海道のことだと考えられているみたいだけれど、岩波版『御伽草紙』によれば「はだか島」という島で「喜見城の都へならば、順風よくして三年、風あしくは七年にもわたる也」という返事があったというのだから、どう考えたって現実の北海道とは異なるのである。


もっとも、だとすれば逆に秀衡が「是より北州に、一つの国有り」と言ったというのが謎になってしまうのであり、そこは問題なのだが、いずれにしろ『御伽草紙』を現実の地理と合わせるのは無理があり、しかしながら何らかの意味があるのだろうと思われる。


そこらへんの研究状況を知りたいんだけれど、さっぱりわからないのである。