蛭ヶ小島の謎(その1)

蛭ヶ小島の謎はかなり複雑な模様。


ウィキペディアの記事を読んで俺が当初どう考えたのかを書いてみる。

蛭ヶ小島(ひるがこじま)は、静岡県伊豆の国市の地名。源頼朝流刑地として知られる。

しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明。発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の遺構は確認されていない。『吾妻鏡』では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記し、当地が比定地であるかは不明。

蛭ヶ小島 - Wikipedia

1 源頼朝は伊豆のどこに配流されたのか一次史料では確認できない
2 比較的信用できる『吾妻鏡』には「蛭島」と記されている(ただしあくまで二次資料)
3 現在「蛭ヶ小島」に比定されている場所からは当時の遺跡が見つからない


そこから導き出されるのは
(1)源頼朝は伊豆の「蛭島」に流された。その場所は現在「蛭ヶ小島」とされている所
(2)頼朝は伊豆のの「蛭島」に流されたが、現在「蛭ヶ小島」とされている場所ではない。
(3)頼朝は伊豆に流されたが「蛭島」に流されたのではない。
という3つ可能性。次に

現在、「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する碑が1790年に建てられた。これが「蛭島碑記」で伊豆の国市指定有形文化財となっている[1]。また、公園内には頼朝・政子夫妻の像が作られている。

現在「蛭ヶ小島」とされている場所は、江戸時代の学舎が「推定」したもの。


そこから俺が想像したのは、江戸時代の学舎が「推定」したものは、現在の歴史学の水準に耐えられるものではないということ。上の遺跡が発見されていないということと合わせて考えれば、現在「蛭ヶ小島」とされている場所は頼朝の流刑地ではない可能性が高いということ。すなわち江戸時代の学舎の秋山富南の「推定」は間違っていた可能性が高いということ。そしてその「推定」はかなりお粗末なものだったのではないかということ。


すると問題は、頼朝の流刑地は、現在「蛭ヶ小島」とされている場所ではないにしても、「蛭島」だったことは事実だったのか?それともそもそも「蛭島」に流されたということ自体が史実では無かったのかということに絞られる。



そして義経北行伝説に「ひる(蛭)が島」が義経が巡行した幻の島々の中に登場していること、また流刑地の名前が海に流された「蛭子(ヒルコ)」を連想させる出来過ぎた話であることから、頼朝の流刑地の「蛭島」は存在しない幻の地名であると考えた。


ところが調べてみると話はそう簡単ではない。当初のイメージとはだいぶ違うのであった。


(まあ結論部分は今のところ変更するつもりはないんだけれど)