邪馬台国と女国(その3)

昨日書いたことと重複するけれど頭の整理のために。


魏志倭人伝」には

以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。

と記す。


吉野ヶ里遺跡の人口は

現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。

吉野ヶ里遺跡の紹介:弥生Q&A|


吉野ヶ里遺跡は現在確認されている日本最大の環濠集落だ。


倭人伝」の記述が正しいとした場合、吉野ヶ里遺跡規模の集落でも環濠内の収容人口は1200人だから「婢千人」で一杯になってしまう。残り200人の余地があるけれど、そこで「男弟」らが女王の政治を「佐治」していたというのはちょっと考えられないから、彼らは環濠の外にいて内部は女だけの国「女国」の様相を呈していただろう(この場合は環濠内の兵士も当然女性ということになるだろう)。


吉野ヶ里でこうだから、他の集落の場合「婢千人」は物理的に不可能ということになるだろう。なわち「倭人伝」の記述は誇張されているか、全くの嘘ということになる。


一方、「倭人伝」の記述が誇張されていると考えた場合、吉野ヶ里遺跡クラスでは「婢」は何人だったら有り得るのか?1200人の半分の600人なら可能なのか?


ここで問題になるのは「婢」とは何かということだ。単に女性だというのなら600人でいいかもしれないが、あえて女性だけが集められているというのには意味があるのだろう。彼女達もシャーマンだという説もある。それはともかく、女性であることに意味があるのだとしたら、彼女達は男性との接触を固く禁じられている可能性もあるのではないか?女性たちが起居する場所は男子禁制の「大奥」のようになっているのではないか?だが吉野ヶ里遺跡を見ても環濠内が大きく二つに区切られているというような形にはなっていないようにみえる。
吉野ヶ里遺跡の紹介:復元建物紹介|


環濠内には「北内郭」と「南内郭」があり北が最高司祭者の、南が王やリーダー層の住んでいた場所、すなわちここが邪馬台国だとしたら北が卑弥呼、南が男弟の住居ということになり、それぞれ環濠と柵および物見やぐらで厳重に管理されている。だが内郭の内側に収容できる人数は極僅かであると思われ、「婢」は内郭の外側に居住していたとしか考えられない。しかも現在北部の住居跡は確認されていないようだが、見つかったとしても南より小規模なものだと思われる。


したがって「婢」の人数は外郭内収容可能人数の600人でも多すぎるといわねばならず、見た感じだが100人いるかいないか、あるいはさらに少ない人数の可能性もある。さらに住居跡が見つかってないことから「南のムラ」から通勤していた可能性だってあるのではないか?。


だが、それでは「女国」のイメージとは程遠いし「婢千人」は誇張しすぎだということにもなろう。ましてや吉野ヶ里遺跡よりも規模が小さかったとしたらさらに少人数の「婢」しかいなかったことになるのではあるまいか?そうなるともはや誇張というよりも虚偽といったほうが良いのではないか?


疑問点がいっぱいいっぱいあるのだが、解説などをみると「白髪三千丈で信用できない」とかいってあっさり片付けてしまっているように思われる。それで良いのかといったら全然良くないのではないか?もちろん俺の知らないところで議論されているのかもしれないが、それが一体どこにあるのかがさっぱりわからないのである。