考えれば考えるほど謎だ。
卑弥呼の宮殿は「以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。」と記されており、男子1人を除けば全て女性だ。一方、吉野ヶ里の環濠遺跡の人口は1200人程度だという。魏志倭人伝の記述を信じるなら環濠内の様子はまさに「女国」である。
もちろん倭人伝の記述を素直に信用するわけにはいかない。たとえば千人というのは大げさだということで、実際はもっと少ない人数だと考えることも可能だ。けれども、たとえそれが500人だろうと、あるいはもっと少ない人数であろうと、環濠内には女子しかいないということに違いはないのではないか?また仮に吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だとすると「婢千人」は事実ということになるのではなかろうか?そうではなくて、環濠内に男女が住んでいたのだとすると「倭人伝」の記述は全く信用できないということになるのではなかろうか?
また「有男弟佐治國」ということで「男弟」がいて実務を行っていたと考えられるが、彼は環濠の外にいたことになる。卑弥呼はシャーマンだと考えられるので「佐治」とはいうけれど、実際のところは彼が政治のトップであろう(それを王と呼ぶのは保留するが)。するとそれにふさわしい統治機構が環濠の外にあったであろう。
「吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいた」というが、彼らは民間人ではなく官公庁に勤務する役人と彼らの生活を支える人達ということになるのではなかろうか?すなわち「吉野ヶ里を中心とするクニ」は政治都市だということになるのではなかろうか?もちろん吉野ヶ里が邪馬台国ではない可能性は十分あるが、他のどこでも同じことが言えるのではなかろうか?
「倭人伝」によれば邪馬台国は「七万余戸」という。吉野ヶ里が5400人だから一致しない。これも誇張だと考えることもできる。しかし邪馬台国が吉野ヶ里なら「婢千人」はおそらく正確な数字であろう。とすれば「七万余戸」も正確である可能性があり、すると吉野ヶ里だけが邪馬台国なのではなくて、周辺も含めた大きな範囲が邪馬台国ということになるのではなかろうか?これももちろん「女王の都」が吉野ヶ里以外であってもそうなるのではなかろうか?
「倭人伝」に「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。」とある。この「官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮」は倭国連合の「官」なのか?それとも邪馬台国の「官」なのかといえば、おそらく後者ではなかろうか?
すると「女王国(女国)」は邪馬台国内部に存在する「国」であって、邪馬台国に属さない「国」でもあるということになるのではなかろうか?たとえていうなら「ローマ市内にあるバチカン市国」「山城国の平安京」みたいな感じか?俺は今まで「女王国」とは倭国連合(もしくは倭国連合という概念)のことだと考えていたけれど、そうではないのかもしれない。
つか、そういうことをもっと議論してほしいんですけどね。邪馬台国はどこかということは重要かもしれないけれど、それはもう壁に突き当たっているんじゃなかろうか(考古学的発見があればその度に少しは進むんだろうけれど)。
遠山美都男氏も「これまでの研究が邪馬台国の所在地探しにのみ、多大なエネルギーを費やしすぎた観があるのは否めない」(『卑弥呼誕生』)と書いているけれど、これには全く同意する。