『井伊家伝記』は正しく読まれているのか?(その2)

『井伊家伝記』において、南渓和尚が出家する井伊直盛の娘に「次郎法師」の名を与えたのは、

両親御なげきにて、一度は亀之丞と夫婦になさるべきに、様を替え候とて尼の名をは付け申すまじき旨、南渓和尚に仰せ渡され候故

一度は亀之丞と夫婦になるはずであったのに、姿を変えたとしても尼の名は付けてはいけないと南渓和尚に仰せ渡され、

「井伊家伝記」に記される次郎法師 - 井伊直虎 〜史実から謎を解く〜
たことが原因である。『井伊家伝記』にはそう書かれているけれども実際はこうである、という考え方はありえるだろうけれども、それと『井伊家伝記』にどう書かれているかということとごっちゃにしてはならない。『井伊家伝記』では、彼女を惣領にするために「次郎」と名付けたのではない。彼女が惣領家の娘だから「次郎法師」と名付けたということになっている。


※「尼になると還俗できないから」みたいなことが言われているけれども、『井伊家伝記』にそんなことは書かれていない。それはあくまで裏読みすればという話である。



で、結局のところ彼女は井伊家の惣領となったのか?『井伊家伝記』には

次郎法師は井伊肥後守直親傷害後直政公未だ幼年故、井伊家領地地頭職御勉めなされ候

とは書かれているけれども、「惣領」になったとは書かれていない。もっとも全てを読んだわけではない。そう書かれている箇所があるのだろうか?多分無いと思うけど。


次郎法師は地頭になったのである。詳しいことは知らないけれど、地頭というのはこの時代においては古めかしい響きのある言葉ではあるまいか?なぜ、次郎法師は「地頭」を称さなければならなかったのか?


それはまさに次郎法師が女性であるが故に惣領になれないが、地頭になら女性でもなれからではないのか?もちろん、それが真実である保証はないけれど、『井伊家伝記』という物語の中では一応筋の通った話になっていると思われる。



しかるに、​小和田哲男氏氏の

日経新聞

跡取を示す惣領の2文字を次郎法師に付けた史料がある。次郎は井伊家の跡取りの名前であり、同時期に次郎を名乗る男性がいたとはかんがえられない。

という「史料」は何であろうか?井伊達夫氏によれば、

「惣領」というのは『井伊家伝記』がいっているだけのもので、公証性はない。また武士社会における惣領というのは常識的には男子でなければならない。女子惣領は創作と考えるが至当である

井伊次郎(直虎)新史料公表(一部)における関係識者のコメントについて(井伊美術館)
と、その「史料」とは『井伊家伝記』のことらしい。


だが、『井伊家伝記』で次郎法師が惣領だと書いてある箇所はどこであろうか?上に書いたように、俺が見た箇所にはそんなことは書いてないはずだ。


小和田氏がいう「史料」は『井伊家伝記』ではなく他にあるのだろうか?また井伊達夫氏は『井伊家伝記』の創作だというけれども、その「創作」部分はどこにあるのであろうか?


俺には両氏ともに誤読しているように思われるのだが…


間違ってたら誰か指摘してください。