『井伊家伝記』は正しく読まれているのか?(その3)

昨日も少し触れたが

両親御なげきにて、一度は亀之丞と夫婦になさるべきに、様を替え候とて尼の名をは付け申すまじき旨、南渓和尚に仰せ渡され候故、次郎法師は最早出家に成り申し候上は是非に尼の名付け申したきと、親子の間黙止難く、備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生れ候間、僧俗の名を兼ねて次郎法師と是非なく南渓和尚御付けなされ候名也、

この部分について、

尼になれば一生涯、尼でいなければならず、還俗すなわち俗人に戻ることはできない。しかし、僧侶であれば「いざ」の時に還俗できる。だから次郎法師と名乗ることを運命づけられたというのだ。
『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』楠戸義昭

ということがまことしやかに語られている。しかし『井伊家伝記』を素直に読んだ限りではそんなことは書いてない。『井伊家伝記』によれば次郎法師」は「僧俗の名を兼ね」た名前であり、僧侶の名前ではない。僧侶の名前にすれば還俗できるというのならば、たとえば彼女が井伊直盛の娘の祐圓尼と同一人物であるなら「祐圓」みたいな名前でも付ければいいではないか?


次郎法師の両親は「尼の名をは付け申すまじき」と南渓和尚に命じただけであり、尼になると還俗できないからなんて理由は一言も述べてない。それに尼の名を付けようが付けまいが出家したからには次郎法師は尼であろう。そもそも尼が僧侶の名前を付ければ還俗できるなんてことが本当に可能なのだろうか(一休さん頓智話じゃやあるまいに) ?


両親の意図は不明だが、還俗できる可能性を担保するために尼の名を付けさせなかったという可能性はかなり低いのではないか?


そして結局のところ『井伊家伝記』には次郎法師が還俗したとは書かれていない


次郎法師は尼のまま「地頭」になったのだろう。


先に女性は惣領になれないが地頭にはなれるということを書いた。では尼は地頭になれるのか?知らなかったので調べたらすぐにわかった。尼でも地頭になれる。というか、鎌倉時代に最初に地頭になった女性は「寒河尼」という尼であったらしい。
鎌倉時代の地頭制度で、はじめて女性で地頭になったのは誰か。 | レファレンス協同データベース


還俗云々は誰が最初に言い出したのか知らないが(小和田氏か?)、それは次郎法師井伊直虎説が出来て、直虎というい諱があるから還俗したのだろうという推測の元に発生したものではなかろうか?


だが『井伊家伝記』を素直に読む限りは、そんな意図で「次郎法師」と名付けた可能性は全く無いとは言い切れないけれども、かなり低いのではないだろうか?



(追記 18:06)

そもそも尼が還俗できないというのは本当か?

「僧尼令」(大宝令新解)というのを見たら「凡僧尼自還俗者、」とあって、僧尼が還俗したら治部省に届けて僧籍を除き、もとの戸籍に還付せよとはあるけれど、還俗できないなんてことは書いてない。


一体どこから、こんな話が出てきたのか?


なお「尼 還俗」で検索すると。小弓公方足利義明の娘は青岳尼といい、還俗して里見義弘の妻となったというウィキペディアの記事がヒットした。
青岳尼 - Wikipedia


東海地方では尼は還俗できなかったという話があるようだが、その根拠は何であろうか?その根拠は井伊直盛の娘が次郎法師と名乗ったからという循環論法ではあるまいか?