報恩寺のマルコ・ポーロ像(その5)

一つ新しい情報が見つかると、そこから更に新情報が次から次へと見つかって、情報処理が追い付かない。とりあえず『日本民族文化史考』(白柳秀湖 1947)を片付ける。。

丹下定英父子が曹洞宗と何の関係があり、何を粉本として五百羅漢の中に、マルコ・ポーロと忽必烈の像とを交へたかは、筆者の考へ及ばざるところではあるが、この群像の粉本は恐らく広東の羅漢堂のそれであらう。しかし丹下定英父子がこれを造上げたのが享保年間であるといふのを真実とすれば、この群像の粉本は、寛永鎖国以前既に日本に入つてどこかの禅刹に安置されて居なければならぬ筈のものだ。筆者は今その粉本について考究中である。

つまり白柳秀湖は報恩寺の五百羅漢のマルコ・ポーロには粉本(手本)があり、それは広東の羅漢堂(華林寺の羅漢堂)だったであろう。そして江戸時代は鎖国だから、その手本が日本に入ってきたのは寛永以前だと推理したということになる。


結論から言えば既に書いたように華林寺の羅漢堂は1851年完成で、報恩寺の五百羅漢は1734年(享保19)完成なので、報恩寺の方が早く、報恩寺が華林寺を参考にするということはありえない。白柳秀湖は「華林寺」という寺の名を一度も記してないので、「広東の羅漢寺」としか把握しておらず成立年も知らなかったと思われる。


しかしながら俺もまた、この情報に接する前は、そのような経緯があった可能性が高いのではないかと思っていたのであった(ただし鎖国とはいえ全く閉じていたわけではないから、寛永以前とは考えてなかったけど)。


※ なお像の製作者は丹下定英父子とあり、俺も当時そういう名前で見たと記憶してるけれども、今見たら

仏像は胎内銘によって,1731年(享保16年)から1734年(享保19年)の4年間に京都の大仏師法橋宗而重賢,駒野定英珍盈を主班とした,9人の仏師によってすべて京都で作成されたことがわかります。
盛岡市指定文化財 報恩寺の五百羅漢・羅漢堂|盛岡市公式ホームページ

とある。こっちには

仏師法橋宗而重賢、駒野定英陳盈(ちんえい)、駒野丹下定孝ら9人
五百羅漢で有名な報恩寺(PDF)

とある。定英と定孝は親子という記述はない。丹下とは何ぞ?というのも気になるが、まあ本論とは関係ない。



以上のように、報恩寺と華林寺の間には直接の関係はない。しかしそれで終わりかというとまだ終わらない。


(つづく)