付喪神について(その1)

名前だけは聞いたことがあるけれども、付喪神とは何かということをちゃんと考えて見たことはなかった。「付喪神(つくもがみ)」の「つくも」とは「九十九」のことだということさえ、言われてみれば確かにと思うけど、今まで気付いていなかった。なぜ「九十九」なのかというと、

「つくもがみ」という言葉、ならびに「付喪神」という漢字表記は、室町時代御伽草子系の絵巻物『付喪神絵巻』に見られるものである。それによると、道具は100年という年月を経ると精霊を得てこれに変化することが出来るという。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と同絵巻の詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされ、『伊勢物語』(第63段)の和歌にみられる老女の白髪をあらわした言葉「つくも髪」を受けて「長い時間(九十九年)」を示していると解釈されている[1][3]。

付喪神 - Wikipedia
とあるように「九十九」で「長い時間」を表すという解釈があるようだ。


ところで俺は付喪神は単に古い道具の霊だと思っていて百年経過した道具という属性があることすら知らなかった。それを知ると「百年」なのになぜ「九十九」なのか?というのは大いなる疑問となる。そこからどんどん深みにはまっていく。


「九十九」は百に一つ足らないということ。上にある『伊勢物語』の「つくも髪」は

百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ

という歌にあり「老女の白髪」のこと。「白髪が水草ツクモに似ているところから」だとされる。「百から一を引いた九十九」と「ツクモ」という名の水草とをかけたもの。一説には「百」という漢字から「一」を抜けば「白」になることから白髪を表現するとも言われる。そういう意味がありながら、百年経過した器物に対して「九十九」という数字を「長い時間」だからという理由で使用するというのは大いに疑問である。


付喪神」初出の『付喪神絵巻』冒頭に

 陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すと云へり。是れによりて世俗、毎年、立春に先立ちて、人家の古道具を払ひ出だして、路吹に棄つる事侍り、これを煤払と云ふ。これすなはち百年に一年たらぬ付喪神の災難にあはじとなり。又新玉の始め、楡柳の火を切り、若水をむすび、衣装家具等にいたるまで、みな新らしく、声華やかなる事、たゞ富貴の家のおごれるよりおこりたると思ひたれば、かの付喪神をつゝしみて、新を賞しけりと、今こそ思ひ合はせて侍れ。

とある。『陰陽雑記』によれば「器物百年を経て」「付喪神と号す」とある。ところがその後に「百年に一年たらぬ付喪神の災難にあはじと」とある。上の説明なら「百年に一年たらぬ」ではまだ付喪神ではなくて付喪神になる直前の状態のはずだが、それを付喪神と呼んでいることになる。これは矛盾ではないか?もちろんこれは『付喪神絵巻』著者の説ではなくて、説の紹介という形であるから、二つの説が矛盾していてもおかしくないとは言えるけれども。


ところでこれも今まで知らなかったことだが「百鬼夜行絵巻」は『付喪神絵巻』における妖怪の行列の場面を描いたものだというのが現在主流の説で、実際に見たところまさにその通りであろうと思われる。ここで気になるのは「百鬼」という言葉。「百鬼」「百鬼夜行」という言葉自体は、以前よりあって器物の妖怪のことではないと思われるけれども、百年経過した器物の妖怪を表現するのにふさわしい言葉でもある。


しかし、このアプローチではこれ以上のことを論じるのは難しい。だがよくよく考えて見ると新たなる疑問が。


(つづく)