付喪神について(その2)

そもそも論として『付喪神絵巻』はどこまで信用できるのか?もちろん付喪神など実在しないのは当然だが、そういう意味ではなくて『付喪神絵巻』に書かれていることは、どの部分が著者の創作で、どの部分がそれ以前から存在していた話なのかということ。

 陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すと云へり。是れによりて世俗、毎年、立春に先立ちて、人家の古道具を払ひ出だして、路吹に棄つる事侍り、これを煤払と云ふ。これすなはち百年に一年たらぬ付喪神の災難にあはじとなり。又新玉の始め、楡柳の火を切り、若水をむすび、衣装家具等にいたるまで、みな新らしく、声華やかなる事、たゞ富貴の家のおごれるよりおこりたると思ひたれば、かの付喪神をつゝしみて、新を賞しけりと、今こそ思ひ合はせて侍れ。

『陰陽雑記』という書物の実在は確認されていない。現在確認されてないだけで実在した可能性もあるけれど、そんな書物など実在しない、すなわち嘘の可能性もある。しかしこれはそれ以上どうしようもない。だが、次の「煤払」についてはどうか?煤払いとは歳末に新年を迎えるために文字通り煤を払うことだ。大掃除だから古道具を捨てるということも含まれるとは言えるかもしれないが、古道具を捨てることを煤払いと言うわけではない。非常に怪しげな説明だ。そもそも百年経過した器物が付喪神になるのであれば「古道具」全般を捨てる必要などない。百年近く経過した器物がある家というのも伝統ある京都といえども稀であろう。もしあったとしてもそれを捨てるのか?という疑問もある。器物といってもピンからキリまであるだろう。捨ててよいものもあるかもしれないが、家宝として大切に保存するものもあるのではないだろうか?そして現在でも残っているものもある。そんな風習があったら残るはずもない。よってこれは嘘だと考えられる。とすれば上の『陰陽雑記』も嘘だと考えられる。さらにいえば、これが嘘だということを、当時の人が気付かないはずがないとも思う。すなわちこれは読者を騙そうと企んだものではなくて、明白な嘘を書いて、読者もそれに気付くことを前提にしたものだと考えられるのではないだろうか?


付喪神絵巻』が何を言いたいのかといえば、悉皆成仏であろう。心の無い器物でも成仏できるということ。仏教には「方便」という言葉があり、人々に仏の教えを伝えるための手段としてなら嘘も許されるということだろう。「嘘も方便」という言葉は江戸時代から使われだしたそうだが、考え方自体はそれ以前からあったとして疑いないだろう。


そう考えたとき付喪神」という存在そのものが『付喪神絵巻』による創作ではないかという疑問が湧く。もちろん古くなった器物が妖怪になるという考え方自体はそれ以前からある(『今昔物語集』等)。けれども『付喪神絵巻』以前に「付喪神」という名前の妖怪に関する伝承や信仰は無かった可能性が非常に高いのではないかと思わずにはいられないのである。


(つづく)