付喪神について(その15)

あと残るは「つくもがみ」という名前の器物について。なんだけどほとんど調べてない。


まず有名な付藻茄子

「九十九髪」「作物」とも記される。

静嘉堂文庫美術館 | 唐物茄子茶入 付藻茄子
とある。ただ、どの名称がどの史料に載るかといった詳細がわからない。


信長公記』に「つくもがみ」とある。


『甫庵信長記』では「作物の茶入茄子」とあり、相国寺惟高和尚の記として

中間此宝壺に於て、百に一数の事を闕くことあるを以て、古歌の心に本づけて、以て作物と名づく

とある。『総見記』では同じく、相国寺惟高和尚述作として

中間於此宝壺以有百闕一数之事、而本古歌之意以名作物

百に一つ足りないことがあるので古歌になぞらえて「作物(つくも)」と名付けたという意味か。何が足りないのかわからないけど。珠光が九十九貫で買い取ったという説があることは前にも書いた。


『津田宗及茶湯日記』に「つくもがみのなすび」「なすびつくも」
天正名物記』に「茄子 ツクモ


「つくも」なのか「つくもがみ」なのか?辞書をみると「つくも」で「つくも髪の略」とあるからどっちでもいいということかな?
九十九(ツクモ)とは - コトバンク


ところで「つぐも」とは「次百(つぐもも)」のことなんだそうだ。「ツクモ」という植物にたとえるために「つぐもも」を「つくも」と約したってことか?「つくも」という言葉は『伊勢物語』が初出なのかな?明確な説明がないんだがそういう話のように思える。今の今まで「つくも(九十九)」という言葉が『伊勢物語』より前からあるものだとばかり思ってたんだけど。だとすれば「つくも」といえば「つくも髪」ということになるのも当然か。



次に、徳川ミュージアムにある火縄銃の「付喪神」。俺の付喪神への興味はここから始まった。最初に思ったのは「百」を避けて「九十九」という意味で「付喪神」と名付けたのではないかということ。日光東照宮の陽明門の逆柱は

「満つれば欠ける」の諺により不完全な柱を加えて魔除けにしたのではと言われています。
日光東照宮、陽明門の逆柱について

というのは有名な話。それと同じ意味があるんじゃないかと。ただし、徳川ミュージアムにある火縄銃には、正確にはわからないけど「のべにすむ〜」という和歌が象嵌されているものもある。これは諏訪神伝如意秘法というものだそうで、これは諏訪明神の供物として獣肉が捧げられるのが、仏教の不殺生戒があるのに何故だということについて「野辺に住む獣我に縁無くば憂かりし闇になほ迷はしむ」と、諏訪明神によって獣が迷わずに成仏できるのだという説明がなされたということらしい(正確じゃないかもしれないけど大体こんな感じ)。すると、付喪神とも無関係とは言えないように思えてくる。『付喪神記』も成仏する話だし、『冷泉家伊勢物語抄』では「狸𤞟狐狼之類」つまり獣が付喪神になるとされているからだ。付喪神に変化することを、成仏できずに現世で迷うと表現することも可能だろうし、そうなる前に「成仏」させてあげるという考えもありえる。両者には共通点があるように思われる。つまり狩猟を正当化するためのものだという可能性。かといって単に「付喪神」とあるだけでは、同じ意味だとするのは難しい。というわけで、結局のところわからないと言うしかない。この象嵌に関しての研究があるのかも知らない。


※ 画像で見ると「付喪神」の「喪」の字が薄いように見えるのだが、薄れてしまったのか、(「喪」が消える的な意味で)最初から薄いのか、光の具合なのか?も気になるところ。


(おしまい)