付喪神について(その8)

付喪神といえば器物の妖怪だということで、日本・中国あるいは朝鮮の器物妖怪との比較研究がもっぱらなされているの。しかしながら年を経ると妖怪化するのは何も器物に限ったことではない。そのもっとも代表的なものは猫又であろう。ところがネット検索しても付喪神と猫又の関係を扱ったものは意外に少ない。おそらく研究も少ないものとみられ、むしろ素人の素朴な疑問としてそれに言及するものの方が多いように感じられる(それを「詳しい人」が否定してたりもする)。


で、調べてみたところ「猫又(猫また)」は『付喪神記』が成立したと考えられる室町時代よりも前から存在するのであった。

夜前自南京方来使者小童云、當時南都云猫胯獣出来、一夜噉七八人、死者多、或又打殺件獣、目如猫、其體如犬長云々、二條院御時、京中此鬼来由、雑人又稱猫胯病、諸人病悩之由、少年之時人語之、若及京中者、極可怖事歟、
(『明月記』天福元(1233)年八月二日)

奈良に「猫胯(ねこまた)」が出現して7〜8人が食べられ、死者多数。この獣を撃ち殺したところ、猫のような眼をして体は犬のように長かった云々。ところが藤原定家はそこから二条院の時に流行した「猫胯病」の話をしている。前者は実体のある「獣」の話なのに、後者は「鬼」で話がかみ合ってないように思われる。奈良に出現した獣の話が実話なのか噂話なのかわからないが、「猫胯」という名前は「猫胯病」の原因とされる「鬼」にちなんで名づけられたものだろうと思われ、妖怪として語られているのではなく実在する動物として語られているのだろう。すなわち奈良の「猫胯」は妖怪ではないかもしれないが、妖怪「猫胯」の存在があってこそのことであるには相違ないだろう。だが「猫胯」がどんな妖怪なのかは不明。「鬼」で病気の原因だということは想像できるけど、猫が化けたのかといったことはこれだけでは全くわからない。


一方、『徒然草』(鎌倉時代末期)

「奥山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる。」と、人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」といふものありけるを、なに阿弥陀仏とかや連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、「ひとり歩かむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川の端にて、音に聞きし猫またあやまたず足もとへふと寄り来て、やがて掻きつくまゝに、頸のほどを食はむとす。胆心も失せて、防がむとするに力もなく、足も立たず、小川へころび入りて、「助けよや、猫また、よやよや。」と叫べば、家々より松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。こはいかにとて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物とりて、扇小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ〳〵家に入りにけり。飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。
『日本文学大系 : 校註. 第3巻』より(旧字体は適宜変更)

この「猫また」は明らかに妖怪。ただし話に出てくる猫が本当に妖怪なのかといえば、「猫また」の話を聞いた法師がびびってたので、ただの猫を「猫また」だと勘違いしたとも解釈できなくはない。猫だけじゃなくて犬も法師に飛びついてるし。それはともかく、この話は妖怪「猫また」の存在があってこその話である。その「猫また」とはどんな妖怪なのかも

「奥山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる。」

「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」

とあることから、わりとはっきりしている。猫又は「奥山にいて人を食べる」「山でなくても年をとった猫が猫またになって人をとる(食べる)」である。ただし、奥山にいる猫又が年をとった猫なのかははっきりしない。奥山以外にいる猫も元は奥山にいる猫又と同じだが本性を隠しており、年をとると本性が出て奥山にいる猫又と同じになるというように解釈できないこともない。「野生化する」というのと似たようなニュアンス。


それはともかく、『徒然草』の「猫また」は、「奥山に住む(ただしそうでない猫又もいる)」・「人を食べる」・「(山にいない猫も)年を取ると化ける」という特徴がある。


一方、『付喪神記』における器物妖怪は
「奥山に住む」

妖物共、住むべき在所を定めけるに、あまりに人里遠くては、食物の便あるぺからずとて、船岡山の後、長坂の奥と定めて、皆々かしこに居移り、
※(京都市北区鷹峯長坂あたりか?)

「人を食べる」

常には京白河に行て、捨てられし仇をも報じ、又は食物の為に貴賤男女は申すに及ばず、牛馬六畜までも取りければ、

「年を取ると化ける」

彼等すでに百年を経たる功あり、造主に又変化の徳を備ふ。

と「猫また」の特徴と合致する。


付喪神記』以前の器物妖怪との比較よりも「猫また」との比較の方が、より合致する点が多いのではないだろうか?