『家忠日記』の「御家門様」は誰か?についての素朴な疑問(その2)
(その1)で『家忠日記』の記述だけで、「御家門様」が岡崎城に来訪したとはたして言えるのかという疑問を書いた。しかしながら多くの(もしかしたら全ての?)研究者がそう解釈してると思われる。だから、この疑問自体が俺の無学のせいかもしれない。
だが、やはりどうしても、どういう根拠でそう解釈できるのかがわからない。なぜだろうか?と、いろいろ調べてあることに気付いた。
正月十三日 尾州清洲にて御鷹つかはさるへき為柏原迄御成十四日岐阜へ御下翌日御逗留十六日尾州清須へ御下着 十八日三州吉良へ御成雁鶴余多被成御取飼 廿二日尾州へ御帰
正月十三日、信長公は尾張の国清州で鷹狩りをなさろうとして、柏原までお出かけになった。
十四日、岐阜へお下りになって翌日はそこで一日をお過ごしになった。十六日、清州にお着きになった。
十八日、三河の吉良へお出かけになって、雁・鶴などたくさんの獲物をおとりになって、二十二日には尾張へ帰られた。
(『信長公記(下) (原本現代訳』(榊山潤)
現代語訳によれば、信長は正月13日、尾張の清州で鷹狩りをなさろうとしたとある。16日清州着、そして18日に三河の吉良で雁・鶴などたくさんの獲物をおとりになったとある。これを読めば、信長は当初「清州」で鷹狩りをするはずだったのが、なぜか「吉良」で鷹狩りをしたということになる。
それはなぜか?本当の目的は鷹狩りではなく三河に赴き、岡崎城で家康と面談するためである→なぜ面談する必要があったのか→家康嫡男松平信康と妻で信長の娘の五徳の仲が悪かったからだ。という連想が働いているのかもしれない。
実際、高橋氏の記事に
本多氏は、信長の岡崎訪問は「松平信康と五徳との不和問題にかかわりがあるのかもしれない」とされている(本多隆成「松平信康事件について」、『静岡県地域史研究』第七号、二〇一七年)
とある。なおこのことに俺が思い至ったのは下のリンク記事。
織田信長 -天正5年12月15日の鷹野-|【note版】戦国未来の戦国紀行
こちらでは
「清須で「御鷹」(鷹狩)をする」と言って出て、急遽、予定を変更して吉良まで足を伸ばしているのである。どうも、この時期の織田信長には、徳川家康と直接話し合わなければならない何かがあったように思われる。(織田信長にとっての「鷹狩」は、現在の「ゴルフ外交」に相当するのか?)
とあり、信康と五徳の不和ではなく、
同盟関係が崩れぬよう、何度も三河に足を運んだのであろう
という趣旨で書かれている。これを読んで、そういうばそいう話を前にどこかで読んだことがあると思い出したのだ(何を読んだのかまでは思い出せないけど)
つまり、『家忠日記』のあのわずかに断片的な部分だけがわかる記述で、「御家門様」が岡崎城で面談したとまで解釈する理由は、この『信長公記』の記事(の解釈)の影響があるのではないかと推測するのである。
ただし、そこには重大な問題があると俺は思うのである。
(つづく)