『家忠日記』の「御家門様」は誰か?についての素朴な疑問(その3)
天正6年正月、織田信長は尾張「清州」で鷹狩りをする予定だった。ところが実際には三河「吉良」で鷹狩りをした。『信長公記』の記述はそう理解されているらしい。
本多隆成氏の記事に
十八日三州吉良へ、鷹狩で獲物多し、
高橋陽介氏の記事に
信長は同年正月十八日から四日間吉良で鷹狩をし、
先の『信長公記(下) (原本現代訳)』(榊山潤)に
十八日、三河の吉良へお出かけになって、雁・鶴などたくさんの獲物をおとりになって、
とある。『信長公記』には
十八日三州吉良へ御成雁鶴余多被成御取飼
とある。ここに何の問題があるかというと、『信長公記』には「御取飼」と書いてあるのだ。「御取飼」とは何か?
「取り飼ふ」とは
① 飼い養う。
② 飼料を与える。
という意味である。だとすれば「雁鶴余多被成御取飼」とはどういう意味になるのだろうか?本当に「鷹狩」という意味で良いのだろうか?
俺は大いに疑問に思う。ただし、じゃあ本当の意味は何なんだ?というと正直わからない。
素直に読めば「雁や鶴をたくさん飼い養った」という意味のような感じがする。しかし「御鷹捉飼場」(取飼野)という言葉がある。この場合は「鷹を飼養する・訓練する場」という意味になる。よって「雁や鶴をたくさん捕えさせて訓練した」という意味のようにも思える。
十二月十日 三州吉良御鷹野に御出 近日に 羽柴筑前可罷上候今度但馬播磨申付候為御褒美 たとごせの御釜被下之由にて取出し被置 罷参次第 筑前に渡し候へと被仰付候忝御事也 信長公 其日は佐和山惟住所に御泊 次日捶井 御成 十二日岐阜に至て被移 後座 翌日 御逗留 十四日雖雨降候尾州清洲御下着
十二月十五日 三州吉良まて御成有て鴈鶴余多被成御取飼
とある。こっちは「三州吉良御鷹野」とあるので「鴈鶴余多被成御取飼」の「御取飼」は「御鷹野」(鷹狩)と同じ意味のようにも思われる。しかし本当に同じ意味なのかは考えて見る必要があるのではないかと思う。
なお『信長公記』における「御取飼」は他に
十月十四日 長光寺山御鷹つかはされ岐阜にて御
生立 なされ候庭子之御鷹御取飼候て御機嫌不斜
十一月八日 東山より一条寺迄しろの渉鷹つかはされ初て御取飼
(※「渉鷹」とあるが他では「御鷹」になってる)
があり、正確な意味はわからないながら「訓練」のニュアンスがあるように思う。
もう一つ気になるのが「御鷹つかはされ」で頻繁に出てくる。そして「鷹野」も出てくる。「御鷹つかはされ」「鷹野」「御取飼」は同じ意味で適当に使い分けでいるだけなのだろうか?それとも意味に何か違いがあるのだろうか?
それは、
正月十三日 尾州清洲にて御鷹つかはさるへき為柏原迄御成十四日岐阜へ御下翌日御逗留十六日尾州清須へ御下着 十八日三州吉良へ御成雁鶴余多被成御取飼 廿二日尾州へ御帰
の解釈にも当然関わってくる。「尾州清洲にて御鷹つかはさる」はずが「三州吉良へ御成雁鶴余多被成御取飼」。しかしこれは清州での「御鷹つかはさる」は無かったという意味になるのか?信長は予定を変更したのではなく、予定通りの行動をしているのではないか?そこが大いに気になるのである。
なお『家忠日記』によれば、
「十六日、御家門様御成候とて、家康〔〕御越候」
とあるのだから、家康は信長が清州へ到着した時には既に「御家門様」が御成だという情報を得ていることになる。しかも家康が情報を得て「御越」という情報を松平家忠は知っていたとも解釈できる(後筆の可能性もあるが)。その点も十分考慮する必要があるだろう。
もし、「御家門様」が信長のことで、そして吉良への「御成」が予定通りの行動だとしたら、『家忠日記』の記事は、信長が吉良に「御成」と聞いて、家康は浜松から岡崎城まで出向いたというだけのことで、信長と面談したとする根拠は乏しくなるのではないだろうか?
そして、信長が岡崎に足を延ばして無いのだとすれば、『信長公記』に岡崎城で家康と面談したことが書いて無いのは当たり前ということになるだろう。