『多聞院日記』天正13年10月8日
一 去六日筑州參內、濃州同被參了、秀長ハ菊亭殿ノ養子ニ成云々、關白殿御裝束ヲ濃州へ被下了ト、樣躰ハ秀吉新王ニナリ、秀長ハ又關白ニ成ルヽ歟、
これを「秀吉が新王になり秀長が関白になるだろう」という観測が世間に流布していたと理解されているけれども、そうではなく、「秀吉が新王で秀長が関白になったかのような状況(様体)だ」という意味。さらにそれは世間の噂ではなく、多聞院(英俊)の感想だというのが俺の考え。
次に天正14年7月24日付の記事
廿四日ニ親王様崩御云々、疱瘡ト云ハシカト云、一說ニハ腹切御自害トモ云々、御才卅五才也ト、自害ナラハ秀吉王ニ被成一定歟、天下ノ物恠也、一天只諒闇トハ如此事也、淺猿々々、女御ヲ誰ソ盜故ト云々、
誠仁親王が24日に崩御された。死因は疱瘡・はしかと言われるが、一説には腹を切って自害したとも言う(女御を誰かに盗まれたからだと言う)。というのが多聞院が入手した情報であろう。そしてここでも
自害ナラハ秀吉王ニ被成一定歟(自害ならば秀吉が王に成るに違いない)
は世間の噂ではなく多聞院(英俊)の考えであろう。なぜ自害の場合には秀吉が王になるのか不明だが、多聞院英俊の中ではそうなっているのだろう。これは推測に過ぎないが、英俊は秀吉が天皇位を狙っており、天皇・親王に落ち度があればそれを好機に皇位簒奪するだろうとの考えをかねてより持っていたのではなかろうか。秀吉が「天皇の子」をほのめかしていたことが関係するのかもしれない。
なお『多聞院日記』天正12年10月16日は正親町天皇が誠仁親王に譲位するために「院の御所(仙洞御所)」に縄張があったことを記す。そして天正13年11月7日に院の御所完成を記す。これにて誠仁親王が天皇に即位する環境は整ったはずだが、直後の11月29日天正大地震発生。おそらくそれが即位延期の原因になったのではなかろうか。地震は単なる自然現象ではなく天の意志だとされた。即位を阻む何らかの意志があったのだと感じられた可能性がある。『多聞院日記』11月30日の記事は「天下之物恠云々」と記す。
この天正13年の7月5日にも大地震があった。その日の記事
一 今日未刻大地震越常篇了、先ツ火神動ト見タリ、七月ノ地震ハ大兵亂也、火神動ハ中央ノ恠異ニテ、天子死、臣下亡、天下人民多死ト云々、大物恠也、先年木澤左京亮信貴山ニ城ヲ拵、久當國關所知行、閏三月七日ニ不慮ニ亡了、其正月廿日巳刻ニ大地震了其以來ハ度々雖有地震無指儀、今日ハ地儀令滅却敷ト仰天了、秀吉天下一同ニ令補佐、昔モ不聞及、盛者必衰時至歟、沈思々々、
「火神動ハ中央ノ恠異ニテ、天子死、臣下亡、天下人民多死ト云々、大物恠也、」とあるのは注目すべき。そして「秀吉天下一同ニ令補佐、昔モ不聞及、盛者必衰時至歟、」とある。
これらに共通する重要なワードは「物恠」。超常的な存在が世を動かし、天皇などの既存の体制を破壊し下層階級出身の秀吉が台頭する。今はそういう時代なのだという認識が多聞院英俊にはあったのだと思われる。
大地震のような現象は単なる自然現象ではなく、天の意志だと考えられていたことは先に書いた。その意味するところを記した「占文」が作られた。その内容は
侫者執政、君子在野、小人在位、朝廷多賊、國受其咎也
といったものだった。どうもこのあたり多聞院英俊の秀吉像とリンクしている感がある、偶然では無く地震が英俊に与えたイメージなのかもしれない。
さらに天正13年12月11日の記事に
一 先段地震ノ時、當山ヨリ火多ク出了ト、內裏ノ御庭ニハ數千ノ聲ニテ夜躍了、朝見レハ異類ノ足アト、或ハ丸、或ハ四方長ク、大小牛馬以下樣々ノアト也シ、院御所ニハ首多アリシ、數ヲヨムニ消失了、二百計在之シト云々、方々不思儀共在之云々、
とあり。11月29日の天正地震の時に内裏と院の御所に怪異があったという。もちろん非科学的な話で目の錯覚あるいはデマの類だろう。しかしそれを聞いた英俊は天皇および親王に不吉なことがあるに違いないという思いを強くしただろうことは想像に難くない。しかもそれは翌年に誠仁親王崩御という現実のものとなった。
(つづく)