泥人形徳川秀忠

俺は日本史が趣味とはいっても、知らないことはいっぱいあって、徳川秀忠が「泥人形」と評されたということを昨日初めて知った(もしかしたら聞いたことがあるかもしれないが全く記憶になかった)。

 

で、検索してみたら、江戸時代中期に成立した『常山紀談』に載ってるとのこと。『常山紀談』を確認したいが、それは後にして、とりあえずさらに検索してみると、正確には「泥人形」ではなく「泥塑人」と書いてあるとのこと。

 

泥塑人を検索してみる

泥塑人(デイソジン)とは - コトバンク

 

「選版 日本国語大辞典の解説」に

 ※集義和書(1676頃)一〇「呼吸の息、いただきより踵に至れり。綿々とながくつづけるのみ也。泥塑人(デイソじん)とも云べし」 〔程氏外書‐一二〕

 と用例がある。「泥塑人 程氏外書」で検索すると、これは「明道先生」という人物を評したものだということがわかる。さらに「明道先生」というのは程顥という人物のことだとわかる。

 

kotobank.jp

さらに、調べると朱子学創始者朱熹の『小学』に

善行70 ○明道先生终日端坐如泥塑人。 及至接人,则浑是一团和气。

との記述あり。

小学 - 维基文库,自由的图书馆

 

すなわち「泥塑人」は江戸幕府の正学である朱子学に影響を与えた思想家を形容したものだった。

 

『常山紀談』は後世の二次史料だから同時代に秀忠が「泥塑人」と評されていたのか不確かな話だが、それ以前に「徳川秀忠 泥人形」で検索すると出てくる、「揶揄」だとか「酷評」だとかいった受け取り方は的外れで、「泥塑人」と評したのは秀忠を偉人になぞらえて褒めたたえているのである。

 

ここまで調べるのに要した時間およそ十数分。

 

 

(追記9:20)百度百科の記述を見ると「泥塑人」という言葉の使用例として朱熹が引用されているというより、朱熹が言葉の出所であるようにも思われ。

泥塑人_百度百科

 

(追記9:40)上のコトバンクに載る「集義和書(1676頃)」とは岡山藩に仕えた熊沢蕃山の著。ただし1676年頃には岡山藩を去っている。『常山紀談』の湯浅常山は岡山藩士。関係あるのかわからないけど、いずれにせよ江戸時代の儒学者にとって「泥塑人」は常識の範囲内ではないかと思われる。