陰謀論めくけど

某ワイドショーをぼーっとしながら音だけ聞いてたら誰だかわからないけれどコメンテーターが


東京電力は国民の生活を第一に考えなければならない」


みたいな発言をしてたのが聞こえきた。ぼーっとしてても、そこだけは耳に残る。


(BGM代わりにしてたんですぐに切るつもりだったんだけど、誰かもう一度言うんじゃないかとしばらく見てしまった。言いそうな雰囲気はあったんだけど結局それだけ)


いや、まあ、きっと偶々なんでしょう。今まで特に気にしていなかった言葉が、ある時を境にして特別なキーワードになる。


これからこういう発言を聞くたびに、ある種の想像してしまうことになるんだろう。

出生率を引き下げる大きな要因

産経新聞に丸尾直美氏の「正論」: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
経由
【正論】尚美学園大学名誉教授・丸尾直美 こうすれば出生率はU字回復だ - MSN産経ニュース

 出生率を引き下げる大きな要因は、経済発展に伴う女性就業の一般化に、子育てと就業を両立させるための制度・慣行・政策がついて行っていないことにある。日本で女性の就業が普及しだしたのは、1970年代からである。就業と子育ての両立が難しいので、次第に女性の初婚年齢が高くなり、それとともに出生率も下がってきた。

その解決策として

 出生率が2・0近くに改善した大方の国は、女性就業率も高く、家事と育児の両立を支援する家族政策に国内総生産(GDP)の3%前後を投じた。日本の場合、家族、近隣、職場での支援体制に助成し、家族政策への公的支出を、現在のGDPの1%から段階的に2%程度に高め、特に都市の女性の子育て環境を改善することだ。明るい展望が開ければ、出生率のU字回復が促され、労働人口の減少も食い止められるだろう。

と述べている。


ただ、少子化の最大原因は未婚化と晩婚化であると思われ。もちろん未婚化・晩婚化の原因として、育児支援制度の不備があるとは言えるわけで、しかしそれだけでU字回復が可能かといえば微妙ではなかろうか?



なお、
知っているようで知らない少子化のこと。みんなで考えてみませんか? 今回のテーマ『少子化って何?他の国と比べてどうなの?』
によると、

少し古いデータですが、少子化対策がうまくいっている国としてよく取り上げられるスウェーデンの1988年の初婚年齢は、男性30.7歳、女性28.1歳ですから、「初婚年齢が上がった=少子化が進む」とは言い切れません

だそうだ。


これを見てふと思ったんだが問題は「育児」だけではなく、その先にもあるのではなかろうか?


すなわち30歳で子供を産めば、その子が20歳になるときには親は50歳、40歳なら60歳になっている。2人目の子供が20歳になるときにはさらに年をとっている。しかも20歳で「子育て」が終るとは限らない。スウェーデンとの違いは「育児」だけなのか?そのあたりも考えてみる必要があるのではなかろうか?


(追記)
この記事興味深い
CaseMethod Weblog: 10月28日の授業
スウェーデンと日本、どこが違う」

土用の丑の日

「夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。

平賀源内 - Wikipedia

この話はテレビなどで良く紹介されていて割と良く知られている。にもかかわらず、この話をして「うなぎの旬は冬なのに平賀源内に踊らされて」みたいなことを自慢げに語る人多し。


ところが、
土用の丑の日 - Wikipedia
を読むと、これは諸説ある内の一つにすぎないみたい。

春木屋善兵衛説 - 同じ文政年間(1818年–1831年)の『江戸買物独案内』によると、土用に大量の蒲焼の注文を受けた鰻屋春木屋善兵衛が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で作って土甕に入れて保存しておいたところ、丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったからという説。
蜀山人説 - やや時代が下がった天保10年(1839年1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇)では、やはり鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が載せられている。
・丑=鰻二匹説 - 平仮名で墨汁を使って毛筆で書いた「うし」と言う文字が、まるで2匹の鰻のように見えたからと言う説。


これらの中でなぜ平賀源内説だけが有名なんだろうか?


思うに、特に史料的に信頼性が高いということではなくて、単にマスコミ等で紹介されたので有名になったということではなかろうか?


ところで、ここに驚くべき記事が
風塵独語

ネットで検索してみると、平賀源内説が出典『明和誌』(文政5(1822)年)として紹介されているが、『明和誌』にはそのような記述はない。「此頃福内鬼外(本名平賀源内)といふ浪人あり、至ての才物、人の知る処なり。落し咄戯作ものの小冊をこしらへ、本やへ遣(おこ)す、今流行戯作もののはじめなり」とあるだけでうなぎの話は出てこない。

ナ、ナンダッテー!


これはさすがに驚いた。ただし、まだこの記事しか見てないからもう少し確認してみる。


近代デジタルライブラリー」に「明和誌」あった。

一、よし原天明のやけ後、水道尻に火の見やぐら出来。中の町へ芸者の見番・うなぎ見世いで、揚屋町にて茶や入口に残り、伏見町茶屋はなく、商人見世計になる。

一、近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す、寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。

という文はあったが、上の記事にあるように
本当に無い!


何じゃこりゃああああああああああああああああ!





(一応別本があるという可能性もあるけれど、やっぱり無いんじゃないかなあ)




今後変更があるかもしれないのでウィキペディアの「土用の丑の日」の項ここに引用しておく。

通説(平賀源内説)

鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、讃岐国出身の平賀源内が発案したという説が最もよく知られている。これは文政5年(1822年–1823年)の、当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)に収められている。

それによると、商売がうまく行かない鰻屋が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の所に相談に行った。源内は、「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、物知りとして有名な源内の言うことならということで、その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したという。実際に鰻以外には、梅干や瓜などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。

実際にも鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。ただ、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べても夏のものは味がおちる。

土用の丑の日(その2)

うなぎ料理の歴史

 現在のように、開いて、タレを付けて食べるようになったのは、18世紀頃から。そして天保年間(1781年〜1789年)に、千葉県銚子にある現在のヒゲタ醤油、五代目当主田中玄蕃(げんば)が、濃い口醤油を作り出した。
 それまで、良い醤油は関西にから入って来たが、濃い口醤油が江戸の人の嗜好に合い、うなぎの蒲焼きを始め、寿司、天ぷらが爆発的に流行した。これがひいては、関西の薄味に対して、関東は濃い味と言う、料理文化になって行くのである。

年号は明和(1764〜)、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保と続く。うなぎの蒲焼が流行したのが明和であろうと、安永・天明であろうと18世紀。


ちなみに平賀源内は1728年- 1780年大田南畝蜀山人)は1749年- 1823年。


「伝説」が仮に事実であろうとも(多分違うと思うが)、鰻の蒲焼が売れるようになった最大の原因は「味が向上したから」ということだろう。


もちろん、なぜ「土用丑の日か」という問題の答えにはならないけれど。

土用の丑の日(その3)

ついでに蜀山人説も調べてみた。

蜀山人説 - やや時代が下がった天保10年(1839年1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇)では、やはり鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が載せられている。

土用の丑の日 - Wikipedia


こっちはネット上に史料が無いみたい。


そして「劉会山大辺甫」で検索すると見事にウィキペディアの引用がずらりと並ぶ。


唯一の例外が
団塊オヤジの短編小説: 「土用の丑の日のうなぎ」について考える

また、やや時代が下がった天保10年(1839年)の「天保佳話」(劉会山大辺甫篇)では狂歌師の大田蜀山人(おおたしょくさんじん)が「神田川」というウナギ屋に依頼され、「本日食べれば一年中無病息災」と宣伝したという説もあります。

という記事。「神田川」という店の名が出てくる。ところがキャッチコピーがウィキペディアと違う(要約したから異なっているのかもしれないけど)。


こっちも謎。

土用の丑の日(その4)

ついでについでに春木屋善兵衛説。

春木屋善兵衛説 - 同じ文政年間(1818年–1831年)の『江戸買物独案内』によると、土用に大量の蒲焼の注文を受けた鰻屋春木屋善兵衛が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で作って土甕に入れて保存しておいたところ、丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったからという説。

土用の丑の日 - Wikipedia


『江戸買物独案内』はデータベース化されている。
江戸買物独案内

確かに「春木屋善兵衛」は記載されている。


でも、書いてあるのは
江戸前 神田和泉橋通 丑ノ日 かばやき所 元祖 春木屋善兵衛」
だけ。具体的には何も書いてないように見えるのだが一体どうゆうこと????


ただし、「丑ノ日元祖」 とあるのは注目すべきだろう。




それにしてもこのソースの不確かさは何なんだ?


大元のソースが事実と推理をごちゃまぜにして書いてあったのが、そのまま確かめもせずに引用、さらに孫引きされて拡散していったんじゃなかろうか?


しかし随分長いこと平賀源内説(および諸説)は流通していると思われるのだが、どうして反論があるにはあるにしても目立たないんだろうか?不思議。