ひとりごと

AとBが喧嘩している。そこにCが、
「Aも悪いがBも悪い。どっちもどっち。自分の悪いところは棚に上げて、相手を攻撃するのは良くない」
とか言って仲裁することが良くありますよね。これは喧嘩の当事者であるAとBの過ちを相殺するということですね。


で、これが「議論」の場合はどうなるんでしょう?
Aの言ってることには間違いがある。だがBの言ってることにも間違いがある場合、
仲裁人Cは、
「お互い様である。自分の間違いを棚に上げて相手を批判するのは止せ。」
って仲裁はアリなんでしょうか?まあ、時と場合によりますよね。
限りなく口喧嘩に近い「議論」ならば、お前らいい加減にしとけよという意味で、こういうのもありかな?


しかし、議論によって何らかの結論を得たい。あるいは結論を得られないかもしれないけど、議論することによって何らかの成果を得たいと考えて議論している場合、この仲裁は一見よさそうだけど単に議論をストップさせるためのものに思えます。それじゃ「和」は得られるかもしれないけど、本来の目的は達せられませんよね。
「Aのここが間違っているから訂正せよ。Bもここが間違ってるから訂正せよ。その上で議論せよ。」
というのが第三者として口を出す場合の望ましい形のような気がします。
議論しているんだから、AがBの間違いを見つけたら指摘するのはおかしなことじゃありませんね。
そして、それは俺が思うに、たとえAの主張に間違ったことがある場合でも通用すると思います。
なぜならAの主張が正しくても、間違っていたとしても、いずれにしろBの主張に間違いがあるという事実に変わりはないからです。
はえてして自分の間違いには気づかず、他人の間違いには気づくものです。
だから間違いを指摘されて、それを認めた場合には、相手の主張に間違いがある場合でも素直に認めるべきであって、その上で相手の間違いを指摘すべきですよね。「お前も間違っているくせに、人の間違いを批判するのはおかしい」というのは「フェア」というのとは違うと思います。まあ感情としてはわからなくもないですけど。


で、自分が間違いを認めたのに、相手が間違いをどうしても認めない場合、そんな相手とは議論する価値はないでしょう。というか議論が成立しませんね。勝ち負けにこだわるなら、それでも「議論らしきもの」をするのに意味があるのかもしれないけど。