「歴史学」と「歴史」

はてなブックマーク注目エントリーをチェックしていると東浩紀氏の発言に対する批判記事が毎日何本かエントリーされている。歴史に関する考え方についてのことなので、俺は大きな関心を持っているのだけれど、何しろ知識が足りないから、論戦に参加することができない。


それ以前に、東氏および批判者が何を言っているのか十分に理解することさえ不可能。もどかしい。別に批判者の主張にケチをつけようと言うわけではない。良くわからないながらも、その主張は大筋で合っているとは思う。だけれど、何か大事なことが抜けているようにも思う。


何しろ、良くわからないのだから、全く的外れなことかもしれないが、心の中でモヤモヤしているのも何なので、バカにされることを覚悟でちょっと書いてみる。


俺が思うに、批判者の批判は、東氏の発言を「歴史学」の視点で批判しているようにみえる。そして、「歴史学」がどのような学問であるのかを説明して、東氏の発言がいかにおかしいかということを主張しているようにみえる。(「みえる」と書いたのは、俺から見るとそう「みえる」という意味)。そして「歴史学」の視点で見た場合、その主張は概ね正しいとは思う。


(たとえば今日読んだこの記事とか)
東浩紀の素朴な経験主義について - 大惨事!過下郎日記


ところが、そもそも東氏が主張しているのは「歴史学」の話ではないようにみえる。というか、「歴史学」については、「歴史学者同士なら生産的な会話は可能でしょう」と述べている。歴史学者が「歴史学」の土俵で議論し、「歴史学」として、何らかの見解を出すことについて問題にしているのではない。


東氏が主張しているのは、「歴史学」の話ではなくて、「アマアチュア」の話だと思う。


すると問題は「アマチュア」(要するに一般人)はどうあるべきなのかということになるのではなかろうか?そこが一番肝心なところだと思うのだが、それについて批判者が言及していない(ように俺にはみえる)。


「アマチュア」が全員「専門家」になれば理想的かもしれない(理想的ではないかもしれない)が、それは空想的過ぎる。では、「アマチュア」は「歴史学」が提出する見解のみを信じるべきであり、それ以外の見解を持つべきではないと考えるべきなのか?


もちろん、「アマチュア」が「歴史学の見解は間違っている」と主張した場合には、それは「歴史学」の土俵での勝負になるので、当然、「歴史学」とは何かという視点から批判されてしかるべきだ。だけど、「歴史学ではそうなるのかもしれないが自分の考えではこうだ」という場合にはどうなるのだろうか?


ここが俺には良くわからない。