丸山眞男と「保守」

先日の池田信夫氏の記事。

日本に伝統と呼べるものがあるとすれば、それは明治憲法や新憲法のような輸入品ではなく、丸山眞男が「古層」と呼んだ古代以来の伝統ではないか。それは近代化によって消えたようにみえるが、驚くほど強く現代社会に根を張っている。この伝統を自覚し、それを保守するのか変えるのかを考えることが、本当の日本人の問題だと思う。

池田信夫 blog : 保守すべき「伝統」とは何か


丸山眞男 古層」で検索するとアゴラの記事が多数見つかるのでアゴラ界隈すなわち池田信夫氏の周辺ではこの思想の影響が大きいのであろう。そしてそれが彼らの「保守」の理解にも関わっているのだろう。しかし、その「保守」理解は俺の理解するところと大きく異なっている(なお池田氏自身は「保守」ではなく「リバタリアン」を自認していると思われ)。


さて、「丸山眞男 古層」で検索していて面白い記事を見つけた。
松本健一による丸山真男「歴史意識の『古層』」批判等。:イザ!
松本健一という人(この人のことも俺は知らない)が「古層」論を批判している。引用すると長くなるので直接読んでいただきたいが、

①「無数の大衆たちのことは何一つ扱われておらない」

④丸山らが「日本人の意識構造の基底に『なる・なりゆく』史観を視るとき、…日本人からは知識人以外の民衆がほとんど欠け落ちてしまっている」(p.225)

⑤丸山は「つねに『書かれた歴史』『言葉に現れた思想』しか問題にしなかった。そこでは…エートス、……パトスとして噴出せざるをえなかった行動、等々…を掬いあげることは不可能なのではないか」(p.220-1)

という指摘などは、俺がネットで検索して知った「古層」論について抱いた感想と同じだ。要は「知識人の知識人による知識人のための論理」だということになろう。


それは丸山眞男の影響を受けているだろう池田信夫氏の主張からも窺える。池田氏のいう「歴史」とは知識人が書いた学術的な歴史のことだ。しかし「保守」の重視する「歴史」とはそのようなものではない。

たとえば、カトリック教会の伝統に反対して、誰かドイツの歴史家の学説を採用する男がいたならば、彼の立場は厳格な貴族主義だと言わねばならぬ。なぜならそれは、大衆の畏敬すべき権威に敵対して、たった一人の専門家の権威を優越させる立場だからである。なぜ伝説のほうが歴史書より尊敬され、また尊敬されねばならぬのか。その理由は容易に理解できる。伝説はどこでも、村の正気の大衆によって作られる。ところが書物はふつう、村のたった一人の気ちがいが書くものだからである。
(『正統とは何か』チェスタトン 春秋社)

これが「保守」の「伝統」を重視するという意味である。決して歴史家(インテり)が提示する「本当の歴史」を重視するということではない。



※ なお、これに続けてチェスタトン

過去の人間は無知であったなどという伝統否定論は、保守党のクラブへでも行ってぶてばよろしい。

と書いている。ここで言う「保守党のクラブ」とは文脈上「貴族主義」ということあり、文字通り「貴族」が含まれ、そして丸山眞男池田氏のような人が該当し、現在の一般的な「保守」の意味とは異なっていると思われる。