人間が「神」になることへの恐怖

引き続き「猫殺し問題」。


実のところ感情を抜きにしてドライに考えれば、彼女の「行為」は、子猫を殺すという意味では、世にも稀な特殊なケースというわけでもない。
坂東氏に対する批判には、飼い猫に避妊手術を施すべきだというものがあり、それはその通りだが、現実にはそうしない飼い主は坂東氏ただ一人だというわけではない。その結果、育てられずに結果的に処分される猫が大量にいる。結果的に殺されるのだから、両者は同じだ。


もちろん、そのような無責任な飼い主は批判されるべきだと思う。
それでは、坂東氏のエッセイが強烈な批判を浴びているのは、避妊手術を施さないで子猫を死に至らしめる、その他大勢の無責任な飼い主と同じ意味で批判されているのか?


そうではなく、もっと根本的なところで彼女の文章には人を不快にさせる要素があるのではなかろうか?
俺が坂東氏のエッセイでひっかかりを覚えるのは、彼女が「神」の立ち位置にいるように見えるところだ。「生命」という神秘的な問題を、坂東氏は自分の思索によって解決し、実行した。その間には心の葛藤があったかもしれない。猫を愛して愛し抜いて、何が最善であるのか悩みに悩みぬいたのかもしれない。とにかく、坂東氏は一つの「正解」にたどり着いた。「生命」の問題に正解などない、少なくとも人間にはわからないことであるにもかかわらず…


「人は神ではない。」
と坂東氏自身は言っているが、しかし、彼女は「神」のように振舞っている。


彼女の論理が破綻しているとかは関係ない。むしろ破綻していなければ余計恐ろしいと思う。



以下の引用は、
保守主義 ― 夢と現実』(ロバート・ニスベット著 宮沢克・谷川昌幸訳 昭和堂
から。

正当性とはある単一の世代の源泉をはるかに超えた歴史と伝統のなせるわざである。「物事を真に保守主義者として見るということは」とマンハイムは書いている。「過去に錨をおろした環境および状況から導き出される態度によって出来事を体験することである。」バークやド・メストル、サヴィニーその他の初期保守主義者の観点からすれば、真の歴史は直線的で年代記的な仕方で表現されるのではなく、世代から世代へと伝えられるもろもろの構造、共同社会、習慣、偏見の持続性によって表現される。真の歴史的方法はただたんに過去を絶えず振り返ることでもなければ、ましてや物語を物語ることでもない。それは現在の中にあるものすべてを明かるみに出すような仕方で現在を研究する方法である。そしてこのことは、行動や思考には実に無限の様態があって、それらを十分に理解するにはそれらが過去に錨をおろしていることを承認しなければならないことを意味している。

生命の問題に正解は無い。自由な思考をすればいろいろな考え方ができる。「子猫殺し」もその一つ。だが、そこには「伝統」が抜けている。
この場合、「伝統」とは現在を形作っているものだ。だから、「日本でも過去には〜」というのはあてはまらない。あるいは「今でも地方では」などというのも、その伝統と無関係な人の口から出た場合あてはまらない。坂東氏の「子猫殺し」には「伝統」が見えない。これは坂東氏の「文化」と多数の批判者の「文化」の対立ではない。また、坂東氏の「思考」と批判者の「思考」の対立でもない(そういうのも中にはあるが)。前に「個人的思考」と「文化」の対立と書いたのはそういう意味。

 保守主義者による自由主義批判の核心は、自由主義は要するに全体主義のための「おとりのヤギ」であるという点にある。近代人のなかではとりわけバークからドーソン、エリオット、カークに至る人々がそのように考えてきた。社会内の伝統的権威や役割から人々を解放するという不断の努力を通して、自由主義は社会構造を弱体化し、「大衆型」人間の増加をうながし、そしてこれによって、出番を伺っていた全体主義者たちを招き入れたというわけだ。エリオットによれば、「人々の社会慣習を破壊することによって」、「彼らの自然な集団意識を個々の構成要素に解消することによって、……自由主義はそれ自身を否定するものへの道を準備することになる。」またクリストファ・ドーソンも、ムッソリーニの全盛期に、イタリア・ファシズムは基本的には近代自由主義が生みだしたものだと断定している。

俺が「子猫殺し」批判が全体主義的であると思わず、坂東氏の主張の延長線上にこそ全体主義があると思うのは、つまりこういうこと。