やまとだましい

ウィキペディア」より
和魂洋才

和魂洋才(わこんようさい)とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言葉である。

大和魂

明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。


日本には日本の固有の精神があり、中国や西洋の技術を取り入れても、精神は犯されるものではない。あるいは犯されてはならない。それが「大和魂」。


しかし、「日本古来の精神世界」とは具体的には一体何かという話になると、曖昧模糊としたものになる。


果たして「大和魂」は実在するのか?


そんなものは幻だという人もいるだろう。だが、実在すると確信している人も日本人には多数存在する。


実は、その「大和魂が実在すると確信していること」まさにこれこそが、大和魂の本質であるというような話をどこかで読んで目から鱗が落ちたことがある。(記憶に頼っているので勘違いかもしれない。今度図書館で確認してみる)


だとすれば、「大和魂など実態のない幻である」なんていくら主張したところで、大和魂教の信者を改心させることは不可能である。「ご神体はただの石ころだ」と科学的に主張したところで信仰は揺るがないのと同じ。


で、愛国心だとか靖国問題とかの議論でよく目にする、「実際には日本古来のものではなくて、比較的最近に出来た考え方だ」というような主張。それは歴史学的には意味のある主張ではあろうけれども、政治的には「ご神体は石ころである」的な主張であって、あまり効果がないだけではなく、本質的な問題を見えなくしてしまう危険もあるんじゃないかと思う今日この頃。