くどいようだけど、俺は哲学だとか政治学だとかに深い理解があるわけではない。トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』も未読。
だから、俺が間違っているのかもしれないけれど、散人先生のおっしゃる「衆愚政治」というものには違和感を抱いてしまう。
⇒なぞなぞ(ネット系):吉野家牛丼とかけてブラックバスと解く、そのココロは?(余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋 – Blog)
俺は、「衆愚政治」とは、伝統や習慣、あるいは共同体から切り離された個々人が、思い思いに自己の主義主張を追い求めることではないかと思うのだけど、どうだろう?
念のため書いとくけど、ブラックバスの駆除には、散人先生のような主張があって、それには一理も二理もあることはわかっています。
⇒(参考)池田清彦さん(早稲田大学教授、理論生物学)(Science Xitalk - サイエンス・サイトーク)
問題は、そこじゃなくて、散人先生が自分の主張を絶対的に正しいものとして、異論を述べる人を蔑視しているところ。
トクヴィルは次のような一節で明らかにバーク的な「偏見」の用法にしたがっている。「もしだれもが自分ひとりだけが通る孤立した道をたどってみずからの意見を形成し、真理を求めようとするならば、ある数の人々が共通の信念のもとに結集することはけっしてないということになるだろう。」
(『保守主義 ― 夢と現実』ロバート・ニスベット著 昭和堂)
※ちなみにニスベットはトクヴィルを再発見した人として有名らしい。
どうしても俺には散人先生が「衆愚政治」を体現している人に見えてしまうんですよね。