おばあさんは川へ洗濯に

桃太郎は反男女共同参画?(中日新聞)


俺は、鬼に人権があるかのような解釈が元々気に入らない。これは芥川龍之介の影響が大きいのだろうけど、昔話の『桃太郎』の鬼は、あくまで鬼であって人ではない。そして『桃太郎』での鬼は「悪」そのものである。もし「鬼」に善い面があるとするならば、それは鬼ではなくて人である。だから「鬼にも権利がある」なんてのは、とんでもない話であって、人を人と思わない見下したものの見方である。
(ついでに言えば、鬼は実は渡来人のことだとかいう解釈があるけど、個人的にはそういう神話や民話が実話を反映したものだという説は大いに疑っている。鬼はあくまで想像上の存在であると思う)


で、それはともかく、「おばあさんは川へ洗濯に」だ。これをどのように解釈すればよいのだろう。
これは「ジェンダー・フリー」の話なのか?「ジェンダー・フリー」とはそもそも何だ?実はあまりくわしくないので『ウィキペディア』で一応調べてみる。

 ジェンダーフリー(gender-free)とは、文化的・社会的文脈における「男」「女」の性のイメージや役割であるジェンダーにとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという、「ジェンダーからの自由を目指す」思想、および、この思想に基づいた運動を指す。

なるほど、そういう意味であれば、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」というのは、男と女の役割が分けられていると考えられるので、それはいけないということになるのだろう。ただ、気になるのは、そういう意味だけではないのではないかと思う点があること。


それはこの劇が「男女共同参画委員会」によって上演されたというところ。「男女共同参画」とは何ぞや?同じく『ウィキペディア』から。

男女共同参画社会(だんじょきょうどうさんかくしゃかい)とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」のこと。

うーん、よくわからん。察するに「社会のあらゆる分野における活動に参画する機会」というのが大事なのだろう。確かに現代は「男は外で仕事をして女は家で家事をする」という風潮がある。それを解消しようということであろう。ということは、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」では、おじいさんは社会に参画しているけど、おばあさんは社会に参画していないということだろうか?


しかし、それだとおかしくはないだろうか?


何がおかしいかって、おじいさんは「山へ」柴刈りに行っているが、おばあさんも「川へ」洗濯に行っているから。これが「家で」ならわからなくもないが、「川へ」である。どっちも外に働きに行っているではないか。


そこで問題になるのは、おじいさんの「柴刈り」だ。「柴」とは何か?「柴」とは雑木のことである。何に使うかといえば燃料にするのである。家の「かまど」を燃やすための柴であるなら、それは家事である。一方「洗濯」も家事である。両者とも家事をやっているのに何の差があろうか?


いや、そうではない。柴は町に売りに行くのだと考えることもできる。だとしたら、これは自給自足経済の枠外であるから、社会に参加する仕事ということができるかもしれない。一方「洗濯」は家事である。だとすると両者には差があることになる。しかし、本当にそれで良いのかは疑問に思う。


(ここからトンデモ)


次の問題は「洗濯」とは何か?ということになる。「洗濯」といえば、衣服を洗うことである。だからおばあさんは、おじいさんのフンドシでも洗っているのだろう、と考えてよいのだろうか?


「おばあさんは川へ洗濯へ」とは何か?それは染物の水洗いのことではなかろうか?俺はそう思っている。


ここで翻っておじいさんの柴刈りに戻る。おじいさんは何のために柴を刈っているのか?それは燃料を採集するためである。何のための燃料か?それは、製鉄のためではなかろうか?製鉄は女人禁制である。
一方、古来女性の仕事として機織(はたおり)がある。おばあさんは絹織物を染色するために川へ行ったのではないのか?
そしてさらに想像すれば、おじいさんとおばあさんというのは、人ではなく、元々は製鉄と機織の神ではなかっただろうか?


とまあ、このように思うわけであります。


で、この『モモタロー・ノー・リターン』が、そういう意味のおじいさんとおばあさんの「職業」を交換するという話であれば、それは男女共同参画とはあまり関係ない話である(むしろ「山幸彦と海幸彦」に近い?)そう考えていないからこんな話が出来たのだろうと思う。