左は平等主義で右は差別主義

日本では(日本だけじゃないと思うけど)右とは何で左とは何かという根本的な問題に混乱があるんだけど、俺は左右の最も大きな違いは「左は平等主義で右は差別主義」であることだと思っている。というか、別に俺が考え出したわけじゃなくて、そう書かれている書物はいっぱいある。


ところが、そういう主張には反論がある。リンクはしないが昨日某ブログの記事にもそういうのがあった。何でそうなるかといえば、「差別」というのが否定的な言葉であると右側に属する人までが認識しているからだと思う。


そして実際に左側の人間が否定的な意味で使っている場合も多い。そこで非常にややこしいことになる。で、「右は差別主義じゃない。偏見だ」という反論が出てくることになるんだけど、本当なら「差別は必ずしも悪いことではない」という反論をすべきところではなかろうか?


確かに「差別」には「人種差別」などの悪いイメージがある。そして俺も人種差別はするべきではないと考える。しかし差別が全て悪いことだとは思わない。右は人種差別等の「悪い差別」を許容してしまうという欠点を常に認識しながら、「良い差別」を認めていけばいいのである(もちろん何が「良い差別」なのかという問題は自明のことではないが)。


そこのところが「平等=善、差別=悪」と叩き込まれている日本人(だけじゃないと思うけど)には、なかなか理解できない。だから、誤解されないように「差別」という言葉を使用するのを避け、「区別」という言葉を使う。中身は一緒だがマイナスイメージを払拭するのに多少は役に立つ。


で、その「差別(区別)」とは何かと言えば、簡単に言えば「俺達は俺達、君達は君達」ということ。こっちはこっちで勝手にやるから、そっちはそっちで勝手にやってくれ。お互いに相手に干渉するのは止めにしよう」ということ。ただし現実には、いつも上手くいくとは限らない。お互いに勝手にやっていても、どこかでぶつかることがある。その時は交渉して、譲歩して共通のルールを作る必要がある。しかし、それ以外のことには干渉しない。一方、「平等」とは何かといえば、人は皆同じということ。自分の守るルールは他人も守らなければならない。右は差異を認めて共存しようとする考え方。右は差異そのものを無くそうという考え方。


左というのは、普遍的な価値が存在する(しなければならない)という思想であって、そこから外れる価値観を認めない傾向がある。というか、そういう価値観を価値観と認識しないから、意識の中では多様な価値観を認めているという感覚は少しも損なわれない。指摘されてもポカンとするだけ。もちろん現実の左が極端な「平等」を主張しているわけではない。むしろ「多様性を認める」なんて言うのは左側の主張であるかのような印象さえある。そこがまた混乱の原因。さらに「多様性を認める」人間として左と自称・他称する、「多様性を認めない」人間として右と自称・他称するなんて「逆転現象」も少なからずあるから混迷を極める。これはとってもややこしい点。


もう一つややこしいのは、戦前・戦中の体制が「右」と一般に認識されていること。しかし果たして本当にそうなのかをもっと真剣に考える必要があると思う。もちろん「戦前・戦中の体制のことを右と呼ぶのだ」と規定すれば間違ってはいないが、そのような考え方で現在・将来を考えていくことが良いのかは大いに疑問に思っている。例えば「左」とされている朝日新聞は「東アジア共同体」を熱烈に支持しているみたいで、それはかつての「大東亜共栄圏」とは違うという認識なのだろうけど、それでいいのかなんてことはかなり重要な問題だと思う。