「右傾化」って一体どんな現象なんだろう?

基本的には、左と右という対立軸があり、重心が「右」に傾いたということになるんだろう。「進歩的」な考え方では、社会は右から左に進歩するのが「必然」であるから、それに抵抗する勢力が増えると右傾化だと感じるかもしれない。また戦前・戦中の社会を「右」と見なして、それを思い起こさせるような言動が増えるのを右傾化と呼んでいるような場合もある。具体的には軍国主義的・全体主義的・差別的言動が増加することが右傾化の特徴とされているようだ。しかし、それが政治思想としての「右」と同じものなのかを考えてみる必要があるんじゃなかろうか。


良く知られていることだけど、「右翼・左翼」という用語は、「フランス革命時代の議会において議長の右側の席を保守派が左側の席を急進派が占めたことに由来する(ウィキペディア)」。保守派が前時代の制度をある程度維持しようとするのに対し、急進派は革命の進行を求める。革命の進行とは要するに徹底的な平等を求めるということだ。


で、「平等」とは何かといえば、つきつめれば人類皆兄弟ということだ。「差別は許されない」と言えば良いことのように思える。しかしこれが曲者で、「平等」の実現には、その構成員全員に「普遍的な価値観」を共有することが求められることになる。「普遍的な価値観」は絶対的に正しいと信じられているので、それに反する者は、「悪」とみなされる。


たとえば、中世日本にキリスト教宣教師がやってきたが、彼らは「正しい教え」を広めにきたのであり、(裏には色々思惑があったにしろ)善意でやってきたのである。彼らの視点では、神道・仏教は「邪教」であり、信者は悪魔を崇拝する者であった。共産主義国では、共産主義を疑問視する者は「再教育」され、あるいは収容所送りになった。ネオコンは「世界を民主化する」と言った。


日本は朝鮮を併合したが、その理論的支柱となったのは「日鮮同祖論」であった。日本人と朝鮮人は先祖を同じくし、その点からいえば両者は「平等」なのだが、日本で「正しい文化」が継承されているという理屈で、「同化政策」が採られた。


「平等化=左傾化」であるとすれば、これらは皆「左傾化」と呼べるだろう。それに逆らう者は、悪・未開・後進的・反動的とみなされて排除される。ところが、その「排除」を「差別」と呼ぶとすれば、逆転して「差別=右傾化」となってしまう…


この前の都知事選では「プロ市民」が、石原都知事を支持する人を強烈な言葉で批判し蔑視した。しかし、彼らはそれが「差別」だとは自覚していないだろう。彼らは自覚していないが実は「右翼」なのか?確かに彼らの言動は「いわゆる右翼」と差がないように見える。だが、やはり彼らはバリバリの「左翼」である。「左翼」であるが故に、あのような言動をするのであろう。


「右翼的言動」というものを、それがどのような思想から発せられたものかを、もう一回再検証してみる必要があるのではないかと思う。すなわち、「異質な存在」に対する差別としてのものなのか、それとも「同質とみなしている(価値観を共有すべき)存在」がそこから逸脱しているように見えることから発せられたものなのかということをである。