「右翼と左翼」に対するイメージ

右翼と左翼を東海道新幹線で表現してみると一般的にはこんな感じになるかな?


「自分は右翼でも左翼でもない」とか「右翼も左翼も嫌い」とか「右翼の主張も左翼の主張も良いところは聞くべき」とか「ほどほどが良くて極端はいけない」とか、そういう主張をしているとき、その人の自分の立ち位置がどこにあると認識しているのかと考えると、「名古屋」や「静岡」にいると思っているのではなかろうか?


でも、俺はどうもこういう考え方にピンとこないものがあるんですね。まあピンとこない人は大勢いるようで、そこで縦軸と横軸で立ち位置を表現しようとする「ポリティカルコンパス」みたいなものが流行しているんだけど、俺はこれにもピンとこないんです。


何がピンとこないかといえば、右と左は対立する概念のはずなのに、左右両極端の人はとても似ている。というか実際にかつてバリバリの左翼だった人間が今じゃバリバリの右翼ということが珍しくない。というか「保守の論客」はそんな元左翼がうじゃうじゃいる。


一つの考え方としては、「世の中が左傾化した」ので、元々左翼であった人間が、相対的に右翼になってしまったというものがある。誰だったか忘れたけど、「自分は変わっていない。変わったのは左翼だ」というようなことを言っていた人がいたと記憶している。しかし、そうだとすると、当時、中間にいた人はどうなってしまうのか?世の中が左傾化して、左翼であったものが相対的に右翼になってしまったのなら、当時の中道は「極右」になっているはずだ。現実には、そうは到底思えない。さらに考えてみれば、彼らは左翼(新大阪)から右翼(東京)へ移動したはずだが、その中間にある「名古屋」や「静岡」を通過した形跡が見られない。これをどのように解釈すればよいのか?


それは、つまり見た目では、新大阪と東京は遠く離れていて、新大阪から名古屋や静岡へ行くよりも大変なように見えて、実のところ、東京に行くほうが余程楽だということであろう。まあ、現実の新幹線では大阪から東京に行くよりも名古屋に行くほうが早いので、ここでは別の例えをする。
「右翼でも左翼でもない」ものの象徴として、新幹線の車窓から見える「富士山頂」を当ててみる。
日本列島を横から見れば下の図のようになる(実際はもっとずっと東京寄りだけど)。見た目では新大阪から東京、東京から新大阪よりも、それぞれ富士山頂へ行く方が距離的には短い。

しかし、実際に行くとなると、新大阪〜東京は、「新幹線のぞみ」でわずか二時間半。
富士山に行くには、東京からなら「こだま」で新富士駅、新大阪からなら、「ひかり」で静岡まで行くということになろうか?そこからバスを使って五合目まで。さらに徒歩で山頂へ。一体何時間かかるのだろうか(10時間くらい?よく知らない)。もちろん体力が必要だ。富士山頂へ登るよりも、新大阪と東京を行ったり来たりするほうが簡単で楽なのだ。


で、俺は、実は日本人の多くが「富士山頂」という狭い空間に閉じ込められているのではないかとイメージとしている。
だが、論壇というバーチャルリアリティーの世界では「東海道新幹線」しか目に入らない。
そして、富士山頂に閉じ込められた人々も、それに気付かず、自分達は東海道新幹線沿線のどこかで暮らしていると錯覚している。まるで映画『マトリックス』の世界のように。
世の中が「右傾化」しているというが、人々は「名古屋」(中道左派)から「静岡」(中道右派)に移動したように見えて、実際は別の空間でちょっとした変化が起ったにすぎないのではないか?


以上、新年早々ネタに付き合ってもらってすいませんでした。