現代のキリスト教徒にそんな人がいるかは知らないが、室町時代に来日した宣教師は日本の仏教や神道などの既存宗教を、サタンが神の教えが広まることを妨害するために作った人々を惑わすための邪教だと捉えていた。キリスト教の教えこそが絶対的に正しいと考えているのだから自然そうなる。
で、これも実際にそんな人がいたかはわからないが、ヨーロッパにキリスト教は正しいというけれど、それを忠実に守る俺はなんでこんなに不幸なんだと考えた人がいたとする。そして彼は、本当はキリスト教は間違っているのではないか?彼らが言う「悪魔の教え」の方が実は正しいのではないか?という考えに至る。
そして彼は「悪魔」を崇拝することを決意し、「悪魔の教え」を守ることを誓う。しかし、ここでいう「悪魔の教え」というのは、本来の仏教や神道のことではない。彼はその信仰の実態について自分の目で確かめたわけではないからだ。彼は「悪魔の教え」とは何かをキリスト教の聖職者がキリスト教の価値観に基づいて説明したものしか知らないのだ。
キリスト教の聖職者はもちろん「悪魔の教え」を邪悪なものとして捉えている。しかし悪魔崇拝者の彼はその評価を逆転させて「良いもの」と考えた。だがそれは繰り返しになるが本物の仏教や神道ではなくて、キリスト教を絶対的に正しいものだと信じる人から見た仏教や神道の姿なのであった。
それからしばらくして、彼は念願の「悪魔を崇拝する人達の楽園」である日本に行く機会を得た。彼は出会った日本人に、日本に憧れていたこと、日本という国はいかに素晴らしい国であるかを力説した。日本人達は遠くからはるばるやってきた彼の言葉に感激した。
しかしそれはほんのつかの間だった。話をしているうちに彼の言っていることが何かおかしいことに気付きだした。彼は我々のことを「悪魔を崇拝する人達」と言っているように感じられる。一体どういうことだろう?また彼は我々のことを「不道徳な人」だと言っているように感じられる。しかしそれなら糾弾口調になるはずだが、不思議なことに彼は我々に親愛の情を示している。解せぬ…
これはあくまで例え話である。
俺はいわゆる「ネトウヨ」の思考というものはこういうものだろうと思っている。彼らが考える「右翼・保守」というものは、左翼の目でみた「右翼・保守」である。左翼はもちろん「右翼・保守」を受け入れられざる、批判すべき対象としてみているが、「ネトウヨ」はそれを逆転させて「左翼の目でみた右翼・保守」を良いものだと考えているのである。左翼が称賛・擁護するものは悪いもので、左翼が批判するものが良いものなのだ。当然そこには本当の「右翼・保守」とのズレが生じることになるのである。