歴史感覚

なんか面白そうな歴史論議をしているところがあった。

Backlash to 1984 - 歴史の中にある自分という感覚


論議の元になったのは櫻井よしこ氏の講演。
日本教育再生機構


まずは、これについて感想を書くべきだけど、正直あまりこの手の話にはかかわりたくない…あまりにもいろいろなことがごちゃ混ぜになっているんで論じるのが面倒だ。俺が一番気になったのは、「鎖国状態」の日本に価値を見出した発言の後に、諸外国と比較して自国の子供が劣っていることを嘆いているところ。日本の子供には日本の子供なりの良いところがあるから、それを育てようという「国風文化的」方向に向かわないのが不思議といえば不思議。


面倒なんで、これはこのくらいにして、「先人の業績」と「現在の自分」との関係についての俺の考え。


歴史好きの素人の楽しみとして「もし○○だったら(○○が無かったら)日本(世界)はどうなっていたか?」というのがある。「歴史にイフはない」とはいうけれど、まあ、学問としてやっているわけではないので、そんなの関係ない。「もし本能寺の変が無かったら?」「もし関が原で西軍が勝っていたら?」実にワクワクするテーマだ。ただし、これを真面目に考えると、結論ははっきりしている。


もし本能寺の変がなかったら、「もし本能寺の変がなかったら」と考えている自分は、まず間違いなくこの世に存在しない。関が原についても同じ。このような大きな事件は、当時の日本人のほぼ全員に何等かの影響を与える。どんな辺鄙な田舎に住んでいようと、その影響はたとえ小さなものであっても、長い年月を経れば大きなものになる。


この手の議論でよく言われるのが、「○○が無かったとしても歴史の大勢に変わりはない」というものがある。そうかもしれない。だけど、もし「本能寺の変」がなかったとして、その後の日本が今とたいして違わないものになっていたとしても、そこには俺は存在しない。現在の日本人とそっくりな生活をしている日本人がこの列島に住んでいるかもしれないが、それは我々ではない。


それどころか、歴史として記録されていない出来事だって、今の自分にとって関わりがある。俺の何十代前かのご先祖様が、誰かに命を助けてもらったおかげで、現在の俺が存在しているのかもしれない。逆のことも考えられる。何百年か前にある男が強盗に殺された。男が殺されたのは可哀想なことであった。しかし、その男が生きていたら、その男の何代か後の子孫が、俺の先祖を殺していたかもしれない。殺さなくても何等かの影響を与えて、結果、現在の俺は存在しないかもしれない。要するに、現在の我々が存在するのは、過去に「良いこと」「悪いこと」を含む全ての出来事があったおかげである。たとえ「悪いこと」であったとしても、それが将来的に「良い結果」をもたらすこともある。「人間万事塞翁が馬」だ。


では、俺はその強盗に、あるいは明智光秀に感謝すべきかといえば、まあ、感謝する必要はないだろう。「強盗は悪いことだ」、「謀反は悪いことだ」と非難しても全然構わないだろう。ただ、現在の自分が存在するのは、過去の様々な「先人たちの業績」の結果であるということだけは認識しておくべきだろう。そして、我々が伝えていく「先人たちの業績」は「(現代人から見て)良いこと」だけを伝承すべきものではなく、「悪いこと」もちゃんと伝えていかなくてはならないと思う。


で、このような歴史観は何も目新しいものではない。

このように歴代天皇の政治には、それぞれ緩急の差があり、派手なものと地味なものとの違いはあるけれども、古代のことを明らかにして、風教道徳のすでに衰えているのを正し、現今の姿を顧みて、人道道徳の絶えようとするのに参考にならぬものはない。

(『古事記(上)全訳注』次田真幸 講談社学術文庫


太安万侶の書いた『古事記 序』の現代訳。「それぞれ緩急の差があり、派手なものと地味なものとの違いはあるけれども」とあるのに注目すべき。『古事記』や『日本書紀』については、天皇に都合のいいように改竄されているという意見もあるようだけど、俺はそうは思わない。そういう目的の改竄をするのだったら、もっと上手くやれたはずだ。神々の世界は、相当な無茶をしていることもあるけど、そんなのはカットすれば良い。そうしなかったのは、そうした神々の行いにも、凡人にはわからない崇高な意味があったと考えていたからではないだろうか?


この歴史認識の問題はとっても重要なことで、これだけじゃ中途半端で、誤解されるかもしれないけど、長くなったんでここで止める。
またいつか書くかもしれない。