ところで、なぜか東北に神功皇后のお墓だと伝えられている遺跡がある。松尾芭蕉の「おくの細道」にも出てくる。
「江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事に や。」(おくの細道)
蚶満寺には神功皇后に関する伝説が残されている。神功皇后は、三韓征伐のときに時ならぬ暴風雨に遭って船が難破。漂流の末、この地にたどり着くが、身籠っておられた皇后は当地で男子をお生みになった。これが後の応神天皇(在位270-310)である。その伝説により干満珠寺と呼ばれていたが、後に蚶満寺と改められた。
なぜ東北に神功皇后の伝説があるのであろうか?それはわからない。
それはともかく、気になるのは、この遺跡が秋田県由利郡象潟町(現にかほ市象潟町)にあるということである。
矢島藩(やしまはん)は江戸時代、および明治時代初期の藩の1つ。出羽国由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)周辺を領した。藩庁は八森陣屋(やもりじんや)に置かれた。
讃岐国領主生駒氏は四代目高俊のとき、お家騒動(生駒騒動)により、出羽国由利郡に配流となった。神功皇后ゆかりの地から、ゆかりの地への配流である。不思議な縁があるものだ。
(参考史料)
象潟
江山水陸の風光数を尽して今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を 吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して、雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴を待。
其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上 こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事に や。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむや/\の関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよ ふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲 しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
⇒おくの細道(UVa Library Etext Center: Japanese Text Initiative)
桑田碧海の譬喩今さら驚かんは愚なる事ながら、流石眼のあたりに之を見ては又もや今我が立てるあたりの渦巻く淵と成らんも知れずと、そゞろにえりもと寒き 思ひす。蚶満寺といふを訪へば小き沙彌出で来りて、これは西行桜なり、これは時頼躑躅花なりなんどと片腹痛きことを云ふのみならず、神功皇后此地より船出 したまひしを以て山号を皇后山といひ、纜(ともづな)を解きたまひたるところを唐が崎といふなどと語り出づ。進藤和泉といへる者の著せる出羽国風土略記巻 の八にも此事見えたれば、沙彌はたゞ虚談を伝ふるのみにして罪無けれども、その始め有らぬことを云ひ出したるもののさかしら悪むべし。