天海=光秀説は誰が唱えたのか

昨日の日記の松永英明さんのコメントによると、光秀=天海説の発祥は、明智家の子孫と名乗る人物によって明治時代に唱えられていたらしい。それを、大正時代に須藤光暉が『大僧正天海』にて一言で却下ということらしい。


ネット検索しても一件もひっかからない貴重な情報。ただし、『大僧正天海』は近所の図書館にも置いてないようで確認不可能。天海=光秀説の始まりが「いつ、誰が、どのような形で」だったのかに興味のある人は多い(といっても歴史マニア限定だから数はたいしたことはないかも)。できることなら、そこをもうちょっと詳しく知りたいです。


「天海=光秀説」は、日本史系掲示板の定番で、試しに現在どうなってるかと、2ちゃんねるの日本史板を見たら、『【惟任】明智十兵衛光秀・其之参【日向守】』というのがあって案の定、天海の話題が出ていた。Yahoo!掲示板で「天海」で検索したら、やっぱりこっちにもあった。しかし、この説がどういう経緯で出てきたのかについて質問しても明確な返答が出ることはほとんどない。ビリーバーはもちろんのこと、ビリーバーを見下すアンチも「江戸時代の俗説」だとか、「小説から」とかで、「違うったら違うんだよ」てな感じで具体的にどういうものかと聞くと答えられない。どっちもどっち。


そんな中で具体的に名前が上るのが『光秀行状記』(明智滝朗)。これも数は多くないけど、掲示板だけでなく、歴史関係サイトなどでも紹介されていて、信憑性がある。で、図書館で借りてきて確認して、これが最初だろうと思ったわけです。


ただし、昔2ちゃんねるの日本史板で、明治だったか大正だったかに、ある学者が講演会で、近頃こういう説が流行しているが全くのでたらめであるみたいなことを発言したというような書き込みがあって、それは気になっていた。でも2ちゃんねるだし、それ以上具体的なことがわからないので、こっちで調べるというわけにもいかず、真偽不明ということに。今から思えばこの学者が須藤光暉かもしれない。


で、当時のログを保存してないか、調べてみたんだけど見つからなかった。その代わり、「明智光秀天海僧正だったって本当ですか?」(01/12/30 22:10)という「時空警察」でこの説が紹介されたときに立てられたスレッドに、

明治25年ごろ、藤木久が天海僧正明智光秀説を唱えたのが最初。
そこに明智光秀の子孫を自称する明田(明智)瀧三郎が同説を支持。

という書き込みがあった。これは松永氏のコメントと合致する。藤木久とは何者なんだろう?検索してもわからない。あと、明田(明智)瀧三郎と明智滝朗氏の関係が気になる。