「私はあなたが何を言っても賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう。」(ヴォルテール)

上の名言、実はヴォルテールの著作や書簡にはみえないそうだ。


ヴォルテール(ウィキペディア)


それはともかく…


柳沢伯夫厚生労働相の「産む機械」発言についての論調が混沌としてきた。


当初、柳沢大臣の発言は「女性蔑視」の発言と受け取られて、それがけしからんということで辞任要求になったのではなかったか。柳沢大臣は女性を蔑視したわけではないと俺は思うけれども、そう受け取れるような軽率な発言であって、それを不快に思う人もいるのは事実であるから、俺は辞任するほどのことではないと思うけれども、辞任要求することがおかしなこととは思わない。ただし、野党の大臣が辞任しない限り審議拒否するという戦略は、そこまで大きな問題なのかという疑問があると同時に、これを世論が支持するとも思えないので、相変わらずバカなことをするものだというのが感想である。しかし、ここまではまだよい。これは柳沢大臣の「蔑視」発言をどこまで深刻に受け止めるかという見解の相違だからだ。


ところが、「問題の本質はそこではない」という主張が目立ってきた。責任を女性だけに押し付けるのが問題であって、女性を機械にたとえなくても問題だというのだ。話がややこしくなってきた。


まず、これについて論じる前に、柳沢大臣の発言の真意は何かといえば、俺の解釈では柳沢大臣の発言は「責任を女性だけに押し付ける」ものであるとは思えない。少子化とは何か。当然のことながら子供の数が減る。さらにその子供の世代にも少子化傾向が続けば、さらに子供の数は減る。要するに未来の日本の人口は減る。これを食い止めるにはどうすれば良いかといえば、子供を産む以外の方法は存在しない。子供を産めるのは女性だけである。であれば女性に頑張って産んでもらわなければならない。(だから女性が頑張って子供を産めるような社会にしなければならない)。という意味であり、そういう社会を作る責任は女性だけにあるのではない。というだけではなく、それは今の子供が大人になったときの社会の責任であるだけではなく、現在の我々がそういう社会を作っていかなければならない。というのが発言の主旨であろう。


それについて、俺がどう思うかといえば、実のところ少子化を防げる社会が出来る可能性は非常に低いと考えている。というか、そこまでして少子化を防ぐことが本当に望ましいことなのか疑問だ。子供を産む、産まないは個人の領域に属することである。子供を産む、産まないの意思決定は社会の複雑な要因が背景にあり、それを人為的に何とかできると考えるのは問題が大きいと思う。人口は減るときは減るのであり、増えるときは増えるだろうと、そんな風に思っている。だから俺の考える「少子化対策」とは、子供の数が少なくなっても、人口が減っても、ゆたかに暮らせる社会を作ることである。というわけで、俺は柳沢大臣の発言に賛成するものではない。


だが、それは見解の相違である。俺と大臣に見解の相違があるからといって、大臣は辞めるべきだなんて俺は思わない。そりゃまあ、柳沢大臣のことは別にして、しょうもない政治家がいれば、「あいつ辞めればいいのに」と思うことはある。これはまあ個人的な感情に属することであり、そういうのと、「誰々は辞めるべき」という言論とは、似ているけど違うものだ。


で、俺の柳沢大臣発言の解釈は上の通りなのだが、そうではなく、大臣の発言は「責任を女性だけに押し付ける」ものだと解釈したとしても、それで辞めろというのはどういう意味で言っているのかという疑問がある。単に気に食わないから、自分の意見と異なるから辞めればいいのにという意味で言っているのだろうか?まあ、そういうことなら理解できなくもない。ただし、反自民・左翼の人達は、別に柳沢大臣だけでなく、自公連立政権のやることなすこと、気に食わないだろうし、自分の意見と異なるだろう。そういう意味での「辞めるべき」は、安部首相や他の大臣の発言であっても、大抵は「辞めるべき」内容の発言であろう。そういう意味で言っているのか?


そうではなく、柳沢大臣の発言は「責任を女性だけに押し付ける」ものとして、多様な価値観のある社会においても、絶対に許すべからざる発言であるとして、大臣は辞めるべきと言っているのか?一体どういう意味で「辞めるべき」と言っているのか明言していないので、こちら側で判断するしかないが、「責任を女性だけに押し付ける発言はあってはならない発言」として、辞めるべきだと主張しているものがかなりあるのではないかと思う。そうだとしたら、それはあまりにも窮屈な「民主主義社会」なのではないだろうか。自称「民主主義者」の中には、多様な意見を認めるような発言をしておきながら、正義の名の下に異論を排除する人達が存在するので注意が必要だ。


絶対にあってはならない発言なのか、発言することは認めるけれど自分は認めない発言なのか、そこをはっきりさせるべき。(まあ、そういうことではなく単に党利党略的な考えによるものも多いだろうとは思うけど)。