内田樹先生がなんか言ってますけど(パート3)

うん、まだ続くんだ。済まない。

グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)

これが引用なのか、要約なのか、わからないんだけれど、これは何を言いたいのだろうか?


「栄養の十分な」とは「グッピーの雌雄50匹」が生きていくのに必要な栄養が十分にあるということだろうか?すると個体数が増えるのを防ぐために幼魚を食べるということは理解できるが、成魚同士が共食いするのは理解できない。すると成魚同士が共食いするのは「栄養」意外の理由なんだろう。だとしたらそもそも「栄養の十分な」の記述は不要ではないのか?


(というか俺はグッピー飼ったことないのだが、成魚同士が本当に共食いするんだろうか?検索すると「しない」と書いてあるところも多いのだが…)


どうもよくわからない。その点はスルーして、養魚鉢のcarrying capacityが9匹で、それ以上増えると共食いをして個体数を維持するということにしておこう。


だが、これも飼い主である人間から見れば、個体数が維持されてるねで済む話だが、食われるグッピーにしてみれば他人事じゃない。グッピーの感情は知る由もないけれど、人間と同じ感情を持っていれば殺されていいはずがない。集団の維持のためには犠牲もやむなしなんて、そんな社会もありなのかもしれないが、現代の社会規範においては容認できるものではない。これが通用すれば社会が崩壊する。


(ただし「少子化」という手段であれば、食われるわけではないから「平和的」だ。中絶はともかく、受精前の精子卵子の「人権」をあれこれいう人はいないだろう(多分)。それをあれこれ言わないのは、あれこれ言わないような社会が形成されてきたということでもあるが)


しかし、人間の場合はグッピーほど単純じゃない。何が違うって人間は生きるために必要なエサ(衣食住)を人間の手で生産していること。そして、それによってcarrying capacityを増やしてきたということ。原始時代の人類のcarrying capacityと現代のcarrying capacityは同じではない。それどころか明治時代と比較したって違う。

列島の環境収容力は1億3000万人で上限に達した。

これが仮に正しいとしても、それは現在の技術水準や社会水準によって導きだされたもの。将来も同じだということではない。増えるかもしれないし減るかもしれない。それを計算することは複雑すぎて、およそ不可能ではないのか?というか現実に少子化現象があるから、上限に達したのではないかという判断が出てくるのではないのか?


人間の少子化グッピーのように単に個体数が減りましたという話ではない。少子化労働人口が減るということだ。すると、それ自体がcarrying capacityに影響を与えるではないか。


そして重要なのは、将来的にはバランスが取れるかもしれないけれど、その過程で「犠牲」が生じるということ。なんらかの犠牲は避けられないかもしれないけれど、貧困等の最悪の悲劇は避けなければならない。それが「少子化問題」というものじゃないんですかね。




まだまだ続けたい。

一定比率の大人がいないとシステムは回らない。
子供だけではシステムは崩壊する。
しかたがないので、とりあえず「子供の数を減らす」ことで比率を挽回することにしたのである。

全く意味がわからない。一体何を言っているのだ?「子供」というのは「外側は中高年だが、頭の中は子供」みたいなのを含んでいるということなのだろうが、それを肯定するとして、なぜそれだと「システムは回らない」ことになるというのだろう、ものすごい飛躍がありそうなのだが…


しかし疲れた。