山本勘助は実在したのか?(その2)

大河ドラマで取り上げられると、関連本が大量に出版される。そこでその分野の最新研究の成果が紹介されていることが多いので重宝する。去年は山内一豊関連本が出版されたおかげで、これまで知らなかったことを知ることができた(ドラマ自体は途中で見るのをやめたけど)。


今年はもちろん、山本勘助に関する書籍が出版されて、本屋の特設コーナーにズラリと並んでいる。できることなら全部読んでみたい。だが悲しいかな、俺は裕福ではない。というわけで図書館を利用したいのだけど、今はまだ大抵が貸し出し中である。まあ、それは半年くらい待つとして、とりあえずお手軽な値段の新書を一冊買った。


山本勘助』 平山優 講談社現代新書

山本勘助 (講談社現代新書)

山本勘助 (講談社現代新書)


山本勘助に関する基礎知識はこれ一冊で十分だと思う。そういう意味ではお買い得。


で、肝心の「片目・片足」について何と書いてあるかというと、

最近になって、片目・片足の勘助像が生まれた理由として面白い説が出された。中世の説話には、金属業者たちに伝わる鍛冶神として、片目片足という不自由な身の人物が登場するとの民俗学の指摘を重視し、さらに勘助の出身地とされる三河の牛窪(愛知県豊川市牛久保町)が、中世以来、鋳物師や鍛冶集団が生活していた場所であることと結びつけて、『軍鑑』は中世の英雄像の残存を、勘助に託して造形したとする意見である(笹本正治「信玄・謙信の一騎打ちはなぜ伝承されたか ― 川中島合戦の虚像と実像 ―」『闘神武田信玄』学研歴史群像シリーズ所収)。だが、あくまで『軍鑑』に忠実であるならば、勘助は片目で足が不自由ではあったが、片足では決してない。そのため、勘助と鍛冶神との間に共通性を見いだす根拠はなく、議論の前提そのものが成立しないのである。

と書いてある。片目・片足の山本勘助像というのは後世になって出来たものであるから、「議論の前提そのものが成立しない」のだそうだ。恥ずかしながら、山本勘助が片足ではなかったというのは、この本を読んで初めて知った。これは収穫だ(まあドラマでも片足でないわけだが)。


しかしながら、この文章にはひっかかるものがある。


まず、気になるのが、「最近になって」というところ。紹介されている『闘神武田信玄』は未読だが、調べたところ去年9月に発売されたものだ。ちなみに笹本正治氏の『軍師山本勘助―語られた英雄像』(新人物往来社)を本屋で見たら、やはり同じようなことが書かれていた。こちらは去年12月発行。しかし、山本勘助と金属民との関係は、いつ頃からかは知らないけれども、それ以前から指摘されていた。これは間違いない。まあこれは一つの例として紹介したということなのかもしれないけれども。


もっと問題なのは、「勘助は片目で足が不自由ではあったが、片足では決してない」、だから、「勘助と鍛冶神との間に共通性を見いだす根拠は」ないという部分。一体どうしてこんな結論になってしまったのか首を傾げざるをえない。それは推理するしかないのだけど、おそらく著者は、鍛冶の神は「片目・片足」であることが必要であると考えているのではないだろうか。実際はそんなことはなく、重要なのは「片目」または「一つ目」であることだ(ちなみに、鍛冶との関わりには触れていないが、「一つ目の神」と山本勘助との関係については、柳田國男が『一目小僧その他』で示唆しているので相当古くからある)。足に関しては正常な場合もあるし、不自由な場合もあるし、片足の場合もある。だから、勘助が片足ではなかったからといって、鍛冶神との関わりを否定する根拠にはならない。


このあたり常々感じていることだけど、歴史学民俗学が、上手く噛み合っていないようで、がっくりきてしまうのである。

軍師山本勘助―語られた英雄像

軍師山本勘助―語られた英雄像


(つづく予定)