本当の弱者

今日、RSSリーダーで未読記事をチェックしていたら興味深い記事を見つけた。


「本当に困っている人」とは誰か (Dead Letter Blog)


去年の12月30日付になっているので、この記事の方が先だが、昨日の記事はこれを見て書いたのではない。全くの偶然だが、俺の言おうとしていたことと大いに関連する。ただし俺は「死ぬ死ぬ詐欺」に関してはおおまかな知識しか持たないので、それについてというわけではなく、一般的な話として書く。


ブログ主さんはこう述べる。

けれどもそもそも「本当に困っている人」というのは誰なのだろうか?おそらくどんなに困っている人であっても生活の中で何らかの切り詰める余地、生活上の無駄を省く(経済的な話だけではなく、時間の使い方を含めて)こと、或いは選好の不適切さを指摘することはおそらく常に可能だろう。とすればほとんどの人間・或いはもしかしたら「本当に困っている人間」など誰もいない、という結論さえ導くことが出来そうだ。

確かにその通りだけれど、現実にはそういうことにはおそらくならないだろう。なぜなら、人の考えは多種多様だからだ。現状に不満で「本当に困っている人」だけを救いたいと考えている人達の中身も一様ではない。ある程度、状況が変わって、その人の満足するレベルになれば、脱落していく人が出てくるに違いない。そして、その人は、それ以上の厳密さを求める人に対して、もうこのへんでいいじゃないかという感情を持つようになるだろう。「脱落者」は状況が「改善」されればされるほど増えていく。そして、とことん厳密さを追求する人達は少数派になっていく。


たとえるならば、夕方の都心を出発する下り電車は、帰宅を急ぐ人々で超満員だ。しかし、全員が終点まで乗るわけではない。駅に着くごとに人は降りていき、終点近くになればガラガラになる。自分が終点まで乗るからといって、他の人も降りてはならないと強制することなどできないし、しようと思えばトラブルになるに決まっている。


ただし、普通、通勤電車の乗客は降りる駅があらかじめ決まっている。しかし「本当に困っている人」は誰かという場合などは、あらかじめどこで降りるか決めているとは限らない。落としどころを探っていきながら、そろそろここらで降りるかなと考えている人も多いだろう。始発駅近くで、「あなたはどこまで行くのですか?」と聞かれたら、「本当に困っている人が優先して救われるようになるまで」と答えるかもしれない。しかし、それは「駅」の名前ではない。誰もがそう答えたからといって、全員が同じ駅まで乗り続けるわけではない。


そういう状況で、考えうる最も遠い駅を想定して、そこまで乗客のほとんどが乗ると考えて、本物の鉄道会社が予算を組んだら、その会社は間違いなく倒産する。しかし、言論界では、そのような予測を前提にした議論を、それに批判的な側も肯定的な側も好んでしたがる人が多いように個人的には思っているんですね。