この前書いた記事のつづき。そして先の騒動とも無関係というわけではない。
先日、忠犬ハチ公の最期の写真が、渋谷区郷土博物館・文学館に寄贈されたというニュースが話題になった。
⇒はてなブックマーク - ハチ公の最期の写真、公開…駅員らに囲まれ眠る : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
それがきっかけで、ウィキペディアの「忠犬ハチ公」の記事を久しぶりに読んで、俺は大ショックを受けた。そこにはこう書いてある。前に見たときには無かった記述だ。
ハチが毎日のように渋谷駅に現れのは、駅前の屋台で貰える焼き鳥が目当てだったという説がある。この説は、解剖されたハチの死体の胃の中に数本の焼き鳥の串が見られたという事実や、生前のハチを実際に見ている渋谷出身の鉄道紀行作家・宮脇俊三による、ハチが駅周辺の人々から与えられる餌を愛食していたという記述[8]などに基づいている。
一方、実際のハチには、この説と合致しない行動が知られている。
屋台が出ない朝9時にも必ず駅に通っていた - 「ハチの渋谷駅へ行く日課は正確であった。小林宅を出るのは毎日午前九時ごろ。暫らくすると戻る。夕方は四時近くなると出かけ戻るのは午後五時過ぎから六時頃であった。 これは、故主、上野博士の朝出かける時間と夕方の帰宅時間であった[9]。
エサを貰えるようになったのは、駅通いしていた9年間のうち有名になった最後の2年間のみであった - それ以前は、駅員や焼き鳥屋、子供など駅周辺の人々から邪険に扱われており、時には暴力を受けるほどであった。
故主・上野に代わる飼い主・小林菊三郎はハチを大切に飼育しており、食事として牛肉を与えていた。 – ハチが空腹になることは考え難い[9]。
渋谷駅では屋台前ではなく、故主・上野が出てくる改札口前に直行して座っていた。また、ハチ公の美談を知らしめた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は、「有名になるといつの世でも反対派が出るもので、ハチが渋谷駅を離れないのは焼鳥がほしいからだと言いだす者が出た。ハチに限らず犬は焼鳥が一番の好物で、私も小林君もよく買って与えていたが、そのためにハチが駅にいるようになったものでない…」と、自身の著書の中で異論に反対している(斎藤弘吉 『日本の犬と狼』 雪華社)。
何がショックだったかというと、俺はこの「駅前の屋台で貰える焼き鳥が目当てだった」という説を本当のことだと思っていたからだ。
この説を知ったのがいつだったかは覚えていないが、軽く20年以上前であることは間違いない。それを知って俺は「絶対にそうだとは言い切れないけれど、実際のところはそんなことだったんじゃなかろうか」というように思い、つい先日まで疑ってこなかった。
なぜ、信じてしまったかというと、
1、有り得そうな話であること。
2、情報を得たのがどこでだったかは覚えていないが決して怪しい情報源ではなかった(おそらく新聞か雑誌で、それなりの人が書いたものだったはずだ)ということ。
3、ウィキペディアでは「説がある」という書き方をしているけれど、俺の見たものは「真実はこうである」というような定説であるかのような記事であった(と記憶していること)。
4、一度だけではなく何度もそういう話を見たことがあること。
5、反論らしい反論を見たことがなかったこと。
6、忠犬だと考える人は、そう信じたいだけなのだろうという思い込みがあったこと(実際にそういう人が大多数だと思うが)
大体、以上のような理由によるものであろうと自己分析している。
しかし、ウィキペディアの説明をみると、「焼き鳥目当て説」への反論は全くもって説得力のあるものであり、今まで信じてきたものが一瞬にして崩れ去ってしまった。
何でそのような可能性に今まで気付かなかったんだろう?と自分が情けなくなる。ただし言いわけはある。そもそも俺はハチ公に特に強い関心を持っているわけではなく、忠犬であろうがなかろうがどっちでも良く、ちゃんと調べてみようという動機がなかったのだ。でも悔しい。
なお、この「焼き鳥目当て説」への反論の記述は2009年9月に加筆されたものが元になっている。現在「ハチ公 焼き鳥」で検索すると反論がいくつか見られるが、ほとんどがウィキペディアに書かれた後のものであり、それと同じ事が書いてある。それ以前の記事では焼き鳥目当て説が有力であり「という説もある」と反論抜きに書いている記事を含めれば圧倒的である。
ただし、あの「きっこ」が2005年3月に
ハチは、とっても大切に飼われていたから、ご飯だって十分にもらっていた。だから、食べ物が欲しくて、毎晩、10kmも走るワケがない。こんなことくらい、誰にだって分かりそうなもんなんだけど、世の中には、美談を聞けば必ずケチをつけたがる、心の貧しいヤツがいるもんだ。
⇒忠犬ハチ公: きっこのブログ
と書いている。俺は「きっこ」をトンデモだと認識しているが、この件に関してだけは「きっこ」が鋭い洞察力を発揮していると認めざるをえない。それが余計悔しい。
で、これで得られる教訓は何かといえば、自分は情報を鵜呑みにするような人間ではないと自負していても、真偽を検証するのは与えられた情報の当否という狭い範囲のことだけ、たとえば「犬は焼き鳥目当てで毎日駅に通うということが本当にあるのだろうか?」みたいなことにだけ考えが集中してしまいがちであり、「屋台の無い朝にも駅に通っていた」とか「エサを貰えるようになったのは最後の2年間のみ」であるとかの知らされてなかった情報については、全く考慮の範囲外になってしまう恐れがあるということ。それを「知らされていなかったんだから仕方ないじゃん」で済ますこともできるかもしれないが、やはりそれは「想像力の欠如」であり、それが原因で致命的なミスを犯してしまうことがあるということを肝に銘じておくことが必要である。
というようなことは、実のところ昔から頭ではわかっていたつもりなんだが、それでもなおやらかしてしまうのである。だってにんげんだもの。
※ なお「焼き鳥目当て説」が登場したのが戦後からという情報がちらほらあるが、ウィキペディアによれば同時代に既に存在していたとのことである。これもまた「戦前=忠義賛美」「戦後=忠義否定」というステレオタイプな思い込みから生じるものであろう。ただし、戦後にその説を広める動機として忠義の否定というものがあったであろう可能性は十分ある。なお戦後といってもすぐにではなく80年〜90年代(「努力」「根性」などがパロディーの対象になった)あたりに急速に広まったんじゃないかという気がするが確かなことはいえない。