推古天皇は実在するのか?

なぜ聖徳太子の実在だけが問題になるんだろうか?このことについて考えてみたのだけれど良くわからない。聖徳太子が「偉人」だから、ことさら否定の対象になるということだろうか?


だけど、歴史の真実を追究するのなら、そんな「格差」をつけることは意味のないことであるばかりか害になるはず。聖徳太子が実在しないなら、推古天皇蘇我馬子もまた実在しない可能性だってあるはずだが、「聖徳太子」だけが実在しないかのような話が圧倒的多数(推古天皇については『隋書』の倭王「タリシヒコ」は男王と考えられる云々というのがあるけれど)。


昨日、『日本書紀』を再読してみて気付いたのは、推古天皇神功皇后の類似性。崇峻天皇任那復興のために筑紫に大軍を出兵させたが、翌年暗殺されたため中断、推古天皇の代に新羅征討。仲哀天皇熊襲征伐のため九州に出兵したが急死、神功皇后新羅出兵と二人の事跡がかぶっていること。
「気付いた」と書いたけど、検索したら直木孝次郎氏が指摘しているので、古代史の分野ではとっくに知られていたことだった。ただし、どうやら古代史研究家はそのことをもって、神功皇后伝説は推古朝以降の「史実」を下敷きにして「伝説」が作られたと考えているようだ。


だけど俺は「神話」や「伝説」がそのように人為的に創作されるものだという考えは好きじゃない。第一、類似の伝説があったとして、どっちかが史実で、どっちかが真似したものだとは限らない。どっちも「伝説」で、ずっと遡れば同一の話に行き着くかもしれないけど、両者ともそこから派生したものだと考えることだって可能だろう。ちなみに推古紀には来目皇子が筑紫に出陣したが病気になったとか、当摩皇子が新羅を討つために船出したが妻が明石で死んだので引き返したという話もある。これも類話が組み込まれていると考えることだってできるのではないか?ついでに後の斉明天皇も西征の途中、筑紫で崩御天智天皇が跡を継ぎ白江村で敗戦(安康天皇は出兵の記事がないけれど、暗殺された経緯が崇峻天皇と似ていて、次の雄略天皇新羅に出兵)。


戦争に向かう途中で急死・急病により中断し、後を継いだものが達成したという「神話」の類型がないか調べてみる価値は十分すぎるほどあると思う。しかし、そういう神話的視点からの研究ってあまり見かけない、あっても直木氏のように一方が史実で、もう一方が捏造みたいな感じになってしまう。もっと可能性を拡げて考えるべきではないのかと、そこが不満(俺が知らないだけかもしれないけど…)。