「扶桑略記」の記事には、一つ気になるところがある。それは、なぜ「沓(くつ)」なのかということ。もちろん天皇が暗殺された際に沓が脱げて、殺人事件の証拠が残ったなんて話をしたいわけではない。
天智は神仙になった。それは良い。だが、なんで沓だけが残ったのだろう?先に紹介した聖徳太子の伝説では、飢人は「衣」を残していた。またヤマトタケルも「衣」だけが残っていた。それなのに天智の場合は「沓」。他にも「沓」だけが残っていたという伝説があるのだろうか?
天智天皇陵には「御沓石」と呼ばれる石が実在する。これをどう解釈すべきか。沓が落ちていたという伝承を元にして、「沓石」と名付けられたという可能性もあるし、逆に「沓石」と呼ばれる石があったので、沓が落ちていたという伝承が生まれたという可能性もあるように思われる。あるいは無関係という可能性も。
「沓石」で検索すると、世の中には多くの「沓石」が存在することがわかる。
goo辞書で「沓石」を調べると、
柱や束柱(つかばしら)の下に据える土台石。柱石。礎盤。
だけど、それだけではないようにも見える。ざっと見ただけだが、
愛知県豊田市、猿投神社の「沓石」は「景行天皇が海を渡ってこられ、上陸して留められた舟が石になったもの」
⇒大岩信仰
大分県速見郡日出町の八津島神社の「沓石」は空から降ってきたもの。
⇒八津島神社の神霊石とヤタ石「石と文化」
諏訪七石「御沓石(おくついし)」
⇒諏訪大社と御柱
神奈川県小田原市の曽我五郎の沓石
⇒謡蹟めぐり 小袖曽我1 こそでそが 曽我の里
まだまだいくらでもありそうだ。そして由来は千差万別。ただ「巨石信仰」と関わりがありそうではある。
俺の全くのあてずっぽうだけれど、こうして見ると「沓石」が先で、後から伝承が作られた可能性の方が高いのではなかろうか。もし、そうだとすれば「沓石」の本来の意味は伝承とは別のところにあるだろう。そもそも「クツイシ」の「クツ」が本来「沓」の意味なんだろうかとも思う。良くわからないけれど。
(追記)八津島神社の「沓石」だけど、よく読むと「踏石」とも書いてある。『日本書紀』に景行天皇が土蜘蛛を退治する時に占いに使った石を「踏石」(はみし)と名づけたとある。
⇒帝踏石