天智天皇暗殺説について考える(7)

当初の予定では、こんなに長くなるつもりはなかったんだけれど、まだまだ続く。

青旗(あおはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは 目には見れども直に会はぬかも

この歌の「木幡」が、地名だという説を唱えたのは、契沖だそうだ。「青旗」は「木幡」の枕詞であり、他にも「青旗の葛木山に」、「青旗の忍坂の山は」などの用例もあるという。

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平成3年第1部門本文_3 - 白山市


契沖は「木幡」を地名だとしたものの、井沢氏が疑問を唱え、そして俺も疑問に思うように、なぜ、宇治の木幡が詠まれるのか疑問に思ったのだそうだ。そこで木幡に近い山科の天智陵に結び付け、解釈されることになった。その際、天智天皇が山科で云々の伝承が参考にされていたのであった。ただし、契沖が参考にしたのは、『扶桑略記』ではなかった。契沖が参考にしたのは『日本霊異記』(と書いているが実際にはそんな記事はなく別のものからであるらしい)であった。それによると、天智天皇は馬に乗って天に上ったという。『扶桑略記』には天に上ったということは書いてないが、そのような伝承が、いつからかはわからないが流布していたのだろう。


ただし、契沖は、それだけで満足できなかった。天皇は生きているのに、「目には見れども直には会わぬかも」では意味不明であり、これは「目には視るとも直には会わじかも」と読むべきで、天皇の死後を想定して詠んだものだと解釈した。


で、この契沖の解釈は、「木幡」が地名だということは、現在でも定説となっているけれど、新訓の方は受け入れられなかった。

江戸時代における合理的思考の模索 柏崎, 順子(注:PDF)

によると、現在の訓は「無理のない訓」であり、契沖は「木幡の上空を行き来される天皇のお姿を倭姫王は実際にご覧になってこの歌をよまれたということになることに対して難色を示しているのである」のだそうだ。

しかし、天皇が木幡の上空を行き来されているというのはあり得えないことである。そのあり得ないことを倭姫王が実際にご覧になっているというのは更に信じがたいことである。倭姫王がそのような荒唐無稽な歌をよまれるはずがないとすれば、「今ノ点」が誤っているということになる。契沖はそのように考えて新訓を提案することにしたらしい。

つまり、契沖は井沢元彦氏が言うところの「呪術的側面の無視ないしは軽視」をするという、井沢氏の言うところの「歴史学者」の元祖みたいな人だったというわけだ(それを指摘しているのは「学者」なんだけれど)。ただし、「非科学的」だからというのではなく、柏崎氏は「真言宗の教義に抵触するというような事情が背景にあったのではないか」と考えている。


しかし、さらにややこしいことを言わせてもらえば、「呪術的側面」を重視する俺は、契沖の疑問は尤もであると思っているのである。倭姫王の歌の現在の解釈は、現実には「あり得ない」ことだが、そういうことがあると古代人が考えることがあり得ないということではない。だが、それは「何でもあり」を意味しない。そこには人がそういうことが「あり得る」と信じるための「何か」がなければならない。どんな矛盾があっても構わないのだという態度は、結局「呪術的側面」を軽視していることになる。


だからといって契沖の解釈が正しいと言いたいわけでもない。もちろん井沢氏の解釈が正しいとも思わない。とにかく難解な歌だと思うのみだ。