倭姫王の歌の謎 (2)

私設万葉文庫
に掲載されている万葉集の注釈書で「青旗の〜」の歌を解説しているものの中から注目すべき点を列記して、括弧書きで俺の感想を書いてみる。素人の俺のことだから、誤読している可能性もあるので、気になる人は直接確認すること。


○「橘守部萬葉集檜嬬手」
「青旗」は「白旗」のこと。「木幡」は「小旗」のこと。殯宮に立てた白旗の上に天皇の魂がかよっている。
(つまり、この歌は天皇崩御後の歌だということ)
「目には見れども」とは、心には察するけれど、目には見えないので会えないということ。
(つまり、何かが実際に見えたわけではないということ)


賀茂真淵、萬葉考〔近〕
「青旗」は「白旗」のこと。「木幡」は「小旗」の誤記。
(上に同じく、天皇崩御後の歌だということ)


○近藤芳樹、萬葉集註疏〔近〕(巻一、二、三〜)
「青旗」は「白旗」のこと。「木幡」は「小旗」。
(上に同じ)


○木村正辞、萬葉集美夫君志〔近〕(首巻、巻一、巻二、別記) 
「木幡」は地名。「青旗」は枕詞。山科の天智陵に近いのでこのように詠んだ。
木幡を過ぎて大津の空にも通わせるが如く見えるという意味。
(実際に何かが見えたわけではないということか)


井上通泰萬葉集新考(巻一〜巻十) 
天皇崩御後の歌。木幡は地名。
山の上を人像に似たる白雲の過ぎるのを見て宮人が、あれは天皇だと騒いだのを聞いて歌に詠んだ。
(皇后が見たわけではないが、「感じた」のではなく、実際に人の形に似た雲が「木幡」で目撃されたのだということ)


○金子元臣、萬葉集評釋
天皇崩御後の歌。「青旗」はそのまんま「青旗」のこと。「木幡」は「小旗」。
でも山科に天智陵があるので地名かもしれない。皇后が天智陵に参拝した時の歌かも。


折口信夫萬葉集辞典
「木幡」は山城国の木幡山のことのようにも受け取れるし、木で作った旗のようにも見える。


斎藤茂吉、萬葉秀歌
天皇崩御後の歌。「木幡」は地名。天智陵の山科に近い。
「木幡山の御墓」(天智陵)のほとりを通うのを「思い浮かべられる」が直接にお会いすることができない。


伴信友高橋氏文考注〔近〕
「青旗」は殯宮に立てる旗。
(つまり天皇崩御後の歌)



圧倒的に多いのが、これは天皇崩御した後の歌だという解釈。そりゃそう解釈するのも無理はない。天皇が生きているのに会えないというのは、解釈次第では理解可能かもしれないけれど、普通に考えればおかしな話。しかも「旗」は殯宮に立つ旗のようにも思える。そして、崩御後と解釈すれば、「旗」はいよいよ殯宮に立つ旗だと自然に考えることができる。


ところが前に書いたように、契沖が「木幡」は地名だとした。その主張するところは実に尤もなことで、地名で間違いないように思われる。しかし、それを認めてしまうと、歌の意味を解釈するのが容易ではなくなる。そもそも契沖自身が、何で山城の「木幡」という地名が出てくるのか悩んだようだ。そこで、天智天皇陵のある「山科」が「木幡」に近いからという解釈が生まれる。まあ、そう解釈するより他になさそうだから、そうなったのだろうけれど、ちょっと苦しい。


さらに皇后は「目に見える」と言っているけれど、「木幡」が「小旗」なら、それは近江宮で見たということで、「魂」(なのか何なのか不明だけど)が、科学的に言えば見えなくても、見えると詠んだからって不自然じゃないけれど、「木幡」が地名だということになると厄介なことになり、「見えた」ということではないとか、宮人が見たんだとか、天皇陵に参拝するときに見たんだとか、いろんな解釈が出てくることになってしまう。


そして、現代の解釈では、天皇崩御後ではなく、病が重くなったときのことだとしているんだけれど、それは「木幡」は「小旗」じゃないのだから、天皇崩御後とは限らないじゃないかと、万葉集には「御病(みやまひ)急(には)かなる時」と書いているんだから、それをそのまま受け取ればいいじゃないかということで、そうなったと思われ。


で、俺は俺で、思うところがあるというか、いつものように「トンデモ」な考えが沸いてきたんだけれど、今日はこれまで。