集団主義と個人主義

連合赤軍事件はひたすら愚劣である - 猫を償うに猫をもってせよ
嗚呼、猫猫先生! - finalventの日記


俺の連合赤軍事件についての知識は全く無いといっても良いレベルなのでトンチンカンな感想かもしれないけれど…


たとえば政治家の失言問題。政治家が個人的に何を考えていようが自由だ。というか本音をしゃべってくれたほうが、その政治家の政治信条や資質を判断する上での材料になるわけで良さそうなものだが、うっかり本音をしゃべってしまうと「失言」として大問題となる。その「失言」は実際のところ、世間話では気軽に言われていて、マスコミでも同種の意見が出されているにもかかわらず、政治家が話すと大問題になってしまうのだ。もちろん、その考えに反対の人が批判するのはおかしなことではないが、一方では、「たとえそう考えていたとしても政治家としては、そのような発言はするべきではない」という批判も少なからず出てくる。


本音を話すことを抑圧する社会。そういう社会が批判されている。「空気を読むことを強制する日本」批判などもその類。こういう社会を「集団主義」と呼ぶなら、その逆の社会は本音を自由に言える社会ということになる。それが「個人主義」の社会ということになる。


ところが、ここに「絶対的に正しいこと」というものが存在すると、「本音」と「絶対的に正しいこと」が一致しなかったとすれば、そういう本音を持った人間は「欠陥人間」ということになってしまう。「欠陥人間」は矯正しなければならない。「個人主義」の社会においては、集団の意見と合わせる必要が無い。必要が無いというか、合わせようとすること自体が「集団主義」として批判の対象になる。それでいて、その「本音」が「間違い」であれば矯正されなければならない。「個人主義教」の信者は、「間違った意見」を持つ者を「善意」でもって矯正しようとし、「間違った意見」を持つ者は自らを「欠陥人間」と自覚し、自ら進んでその矯正プログラムを受けようとする。


「空気読め」の社会では、「公の場」で、自分の本音と異なった発言や振る舞いが強制される。だが「個人主義教」の社会では、「公の場」どころか、誰の見ていないところでも24時間「正しい振る舞い」をしなければならないし、見られていないからといって黙っていればいいというわけにいかず、「間違った振る舞い」をしたら、告白して懺悔しなければならないという脅迫観念に囚われる。


そういう社会もまた「集団主義」と呼ぶのだろう。しかし、それは先に述べた「空気読め」の集団主義とは全く異なった「集団主義」だと思う。